カテゴリー別アーカイブ: 変わりたい貴女へ

禅語百選 松原泰道著より

◎水到渠成(スイトウキョセイ)  禅林類聚19

水到ればみぞ成る

学問の根深うして方に道固し 功名の水到って自ずから渠成る    

水深ければ波浪静かに 学広うして語声低し

水は「ほとけのこころ」象徴 

道歌: 雨あられ雪や氷とへだつれど 溶くれば同じ谷川の水

黒田如水ノ水五則 

①自ら活動して他を動かしむるは水 ②常に己の道を求めて已まざるは水 ③障害にあいて激しくその勢い百倍し得るは水 ④自ら潔うして他の汚濁を洗い清濁併せ容るる量あるは水 ⑤洋々として大海を満たし発して雲となり雨雪の変じ霧と化す凝っては玲瓏たる鏡となり而もその性を失わず → 指導とは自ら行ずること

老子78章

天下に水より柔軟なるは無し而も堅強を攻ること
是に善く勝るもの無し

◎ 随処作主 立処皆真(ズイショサシュ リッショカイシン)  臨済録

随処に主となれば 立つ処皆真なり

意:自分の置かれた立場で隙のないよう精一杯やるなら どこに在っても真実のいのちにめぐり遭える  ※ 参照:六然(百朝集→安岡正篤)

随人観美 全人皆神 (人に随って美を観る 全人みな神なり)

◎ 山河並大地全露法王身   普灯録

山河並びに大地全く法王身をあらわす

自然宇宙すべて法身(真理)の全容の現れである自分に執われていると自信過剰のため真理に会いながら真理の語りがきこえない

争如著衣喫飯此外更無仏祖(イカデカジャクエキッパンニシカン コノホカサラニブッソナシ)→僧宝録

松樹千年翠不入時人意(ショウジュ千年ノミドリ 時ノ人ココロニイラズ) 松樹千年の不断の説法もそちらに心を向けぬ人には聞こえない

◎ 心配   山本玄峰

心を配る

心痛はしてならぬが心配は多いにせよ 山本玄峰:昭和ノ高僧 →智慧と慈悲とが一つに解けた行為の実行

人には親切、自分には辛切、法には深切であれ;山本禅師 

春風ヲ以テ人ニ接シ己ヲ律スルハ秋霜ヲ以テ自ラ慎ム 佐藤一斎 

後藤清一氏(三洋電機);経営者というのは細かい配慮が必要 是が無かったら人間関係がスムーズにいかない・・単に給料を払ったり厚生施設を立派にするだけでは片付かぬ問題がある人間は喜怒哀楽を持つ動物その集団を結合するは人間的愛情が必要である

古代より現代まで、未だ人の心を図るにこれだという答えは見つかっていないと思う。その中で先人たちは自分の体験経験修練のなかからこうすればという教えを説いてくれている。私は、現代のはやりの読み物よりも古来から読み継がれている本を読んでいる方が安心できる。

安心脱生死大丈夫

仙英禅師と井伊直弼

古い雑誌ー1991年年7月号のプレジデントの特集記事「仏典のこころ」を読むのなかにあった作家新井栄生執筆「井伊直弼と正法眼蔵ー受身捨身ともに布施が支えた開国の決断」の中にある言葉です。

井伊直弼といえば「安政の大獄」や「桜田門外の変」などでよく知られている幕末、歴史を動かした重要人物の一人。舟橋聖一の小説「花の生涯」や今、放映中のNHK大河ドラマ「晴天を衝く」にも登場しているので好き嫌いはあるでしょうが歴史上の人物としてよく知られている存在ですね。

直弼は第11代彦根藩主直中の15番目の子として1814年生、幼少は非常に恵まれた状況で教育修練もしっかりと薫育されて育ちます。が、直中がなくなってから暫く続くいわゆる埋木舎の時代と言われる不遇の時代を経て、運命の悪戯かあるいは天の配剤なのか、直弼は1850年思いもかけず彦根藩主の座につき、ペリー来航に揺れる江戸幕府の重責をも担うこととなった訳ですね。

開国を迫るペリーに対しいかに対処すべきか迷っていた直弼は、彼の禅の師父である彦根清澄寺の住職仙英禅師に密かに手紙を出し、黒船退散の祈祷を依頼するとともにいかに対処すべきか尋ねています。その返答の手紙で仙英禅師は「安心脱生死大丈夫」と云う言葉で直弼を叱咤するわけです。本文にも引用されているその手紙の内容の一部はー異国船降伏祈願は承知したという後に以下の文言が記されていたそうです。

「抑佛道之秘術密法之降伏一切大魔最勝 成就ト申候ハ 御前、先年御修終被遊 三関六転語之外別無御坐候。凡王道佛道武道儒道惣萬億之秘術密法修行ト申所ハ悉皆極中極ニ至候ニハ安心脱生死大丈夫ヨリ外更無之事奉存候・・・」

直弼は仙英禅師の元、既に禅曹洞宗悟道允許を得、迷いを断ち切ってはいたもののこの国家の一大事にやはりいささかの揺らぎが生じていたのでしょう。しかしこの手紙を得て即座に決断、攘夷に傾いていた世論を廃し開国の献策を決意断行することに、なるわけです。「安心脱生死大丈夫」とは物事にとらわれない自然な心で生とか死とかも超越し仏の道を行うもの(解著者)ということとのこと。

その後直弼は、正法眼蔵にいう「受身捨身ともに布施なり」の言葉通り生きることも死ぬこともみな布施であるという境地で、当時においては、強権ともいえる政策を断行しいわば近代日本の基礎を築いたともいえるのではないでしょうか。

こういう話を聞いたり読んだりしますと、つくづく覚悟を決めた人間・達観した人間の力のもの凄さというものを痛感いたします。現代、命を懸けて事に当たっているといえる政治家がいかほどいるのでしょうか?甚だ疑問❕

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論語と算盤  渋沢栄一

常識と習慣

常識とは如何なるものか

事に当りて奇矯に馳せず頑固に陥らず是非善悪を見分け利害得失を識別し言語挙動すべて中庸に叶うものがそれである 之を学理的解釈すれば知・情・意の三者が各々権衡を保ち平等に発達したものが常識だろうと考える 更に換言すれば普通一般の人情に通じよく通俗の時理を解し適宜に採り得る能力が即ちそれである

偉き人と完き人

偉い人は人間の具有すべき一切の性格に仮令欠陥があるとしてもそれを補って余りあるだけ他に超絶した点のある人 完き人とは智情意の三者が円満に具足した者即ち常識の人である

私たちは反復行動の産物だ 優秀な行動は単なる行動ではなく一つの習慣となる アリストテレス

何をか真才真智という

我が境遇位地をこれ誤らぬだけのことが出来るならば少なくとも通常人以上になり得ることは難くないだろう 然るに世間は此の反対に走るもので一寸調子が宜いと直に我が境遇を忘れて分不相応の考えも出す 又ある困難の事に遭遇するとわが位地を失して打ちひしがれてしまう 即ち幸いに驕り災いに哀しむのが凡庸人の常である

安岡正篤の著「百朝集」に六然という言葉があります。

自ら処すること超然、人に処すること藹然(アイゼン)、有事斬然(ザンゼン)、無事澄然(チョウゼン)、得意澹然(タンゼン)、失意泰然            (明)崔後渠

これが実践できれば真に常識人として世に出ていかなる状況にあっても、恥をかくということは、ないでしょうね

一日一話 松下幸之助

七月

夕去ればひぐらし来啼く生駒山 越えてそ吾が来る妹が目を欲り

五日 責任を生甲斐に

人は成長するに連れて段々その責任が重くなってきます。そして成人に達すると法律的にもはっきり少年の頃とは違った責任を問われます。又次第に高い地位に就くようになると其れだけ責任が重くなります。併し人は元々責任を問われる処に人としての価値があるのだと思います。責任を問われることが大きければ大きい程其れだけ価値が高いと云う事が言えましょう。ですから責任を問われる処に生甲斐も有ろうと云うものです。責任を背負いその事に生甲斐を覚えないとしたら年齢は20歳をどれだけ過ぎようと一人前の人ではありません。

  • 1949年(S24)下山国鉄総裁事件 ・ 
  • 今日は穴子の日

Memo-責任の取り方➡令和の政府政治家は如何?

*十一日 礼儀作法は潤滑油

私は礼儀作法と云うものは決して堅苦しい物でも単なる形式でもないと思います。其れは云わば社会生活における潤滑油の様なものと云えるのではないでしょうか。職場では性格や年齢物の考え方等色々な面で異なる人々が相寄って仕事をしています。そのお互いの間を滑らかに動かす役割を果たすのが礼儀作法だと思うのです。ですから礼儀作法と云うものは当然心の籠ったものでなければなりませんが、心に思っているだけでは潤滑油とはなりません。やはり形に表し相手に伝わり易くし心と形の両面が相俟った適切な礼儀作法であってこそ初めて生きてくると思うのです。

  • 今日は世界人口デー

*二十日 仕事の上手に

日本古来の武道に一つに弓道があるが此の道の達人の域に達すると、例え目隠しをして矢を放ってもピシャリと的を射るという。併しこう云った名人の域に達するには一朝一夕ではとても覚束ない。一矢射る度に検討を加え工夫を重ねて行って一歩一歩上達していくのである。私は仕事にしても是と同じことが言えると思う。日々自らの仕事の成果を検討する事に努めれば、必ずや仕事の名人と迄は往かなくとも仕事の上手には成れると思う。百本の矢を射れば少なくとも八十本は的に当たると云う上手の域に迄各各の仕事を高めたい。

  • 1969年(S44)米アポロ11号月面着陸成功

今日は勤労青少年の日

Memo-映画燃えよドラゴン➡ブルース・リー(Dont Thinks Feel) 河合隼雄著「影の現象学」影との対決

*二七日 人間の幸せの為の政治

私達が決して忘れてならない事は政治は結局お互い人間の幸せを高める為にあると云う事です。過去に於いては多くの人々が政治に拠って苦しめられお互いの血を血を洗うと云う事もありました。併しそうした好ましくない姿は政治の本来の姿ではない。政治は本来お互い人間の其々の活動をスムーズに進める事が出来るようにするものです。それらの調整調和を図り共同生活の向上を計って、一人一人の幸せを生み高める事こそをその使命としているのです。此の政治は本来人間の幸せの為にあると云う事を私達は先ず正しく認識し合う必要があると思います。

  • 今日はスイカの日

Memo-政治施政者の責任➡現状はどうか

今、まさしく東京オリンピックのドタバタ劇を見ていると、いかに松下幸之助翁の考えている政治の在り方とかけ離れた形になっているかがうかがい知れるというもの。果たして、地に堕ちた日本の倫理観は再生できるのでしょか。

渋沢栄一100の訓言

渋澤健 著 日経新聞社

【夢七訓】

夢無キ者ハ理想ナシ 理想無キ者ハ信念ナシ 信念無キ者ハ計画ナシ

計画無キ者ハ実行ナシ 実行無キ者ハ成果ナシ 成果無き者ハ幸福ナシ

故ニ幸福ヲ求メル者ハ夢ナルベカラズ

欲がない人はダメ(4)

無欲は怠慢の基である      渋沢栄一訓言集 〈一言集〉

残酷な人になるな(5)

悲観的の人は残酷である       渋沢栄一訓言集 〈一言集〉

細かくこだわりすぎる心は元気をすり減らす(12)

あまりに堅苦しく物事に拘泥し 細事に没頭する時は自然に溌溂たる気力を銷磨し進取の勇気を挫くことになる(中略) 溌溂たる活動を為し初めて大事業を完成し得るものであるるから近来の傾向に就いては大いに警戒せねばらぬな         論語と算盤  〈成敗と運命〉

わがままを元気と誤解するな(22)

人と争って自分が間違っておっても強情を張り通す これが元気が良いと思ったら大間違いである        論語と算盤 〈人格と修養〉

※ 安岡正篤著「百朝集」の中にも「六錯」55章によな辞ようなことを戒めた言葉がありますね。

順境も逆境も自分が作りだすもの(30)

世人は 一も二もなく彼を順境の人思うであろうが 実は順境でも逆境でもなく その人自らの力でそういう境遇を作りだしたに過ぎない                     論語と算盤 〈成敗と運命〉

形だけの礼は礼をしないより悪い(62)  

人に対して敬礼を欠いてはならない されど唯形式だけの敬礼は往々相手の感情を害し却って礼せざるに劣るものである
渋沢栄一訓言集〈処事と接物〉

※ 空海が著した本に「三教指帰」というのがあります。解説の本もたくさん出ていますが梅原猛さんなどの本がわかりやすく面白くお勧めですね。それはさておき空海は、その中で、人の道を教えるのに、儒教・道教⁻老荘ー・仏教があって一番高度な教えが仏教だというようなことを言っています。儒教はどちらかというと人の道の基本の基本を教えているともいえるわけですね。だから、渋沢栄一翁も安岡正篤師も、儒教特に論語をしっかりと身に就ければ、社会生活において大方、失敗なく過ごすことができるといっているわけです。

一度真剣に論語読み直してみましょうか。

論語と算盤  

【格言五則】

言行君子之枢機 枢機之発 栄辱之主    易経繫辞上伝

言行は君子の枢機なり 枢機の発するや栄辱の首たり

言行は君子‐教養人・指導者‐にとって枢機‐石弓の引き金。要となるーのように重要。此の引き金を引く一瞬が栄誉か恥辱かを決めるもととなる

発言盈庭 誰敢執其咎       詩経小雅節南山小旻篇

言を発して庭に盈つ 誰か敢て其の咎を執らん

皆が意見を述べ立てて庭一杯に広がっているしかし誰もその責任をとろうとはしない

言不務多 而務審其所謂      大載礼記哀公問五義篇

言は多きに務めず 其の言う所を審らかにするに務む

言葉は多ければよいと云うものではない その趣旨を明らかにすることが大切

故声無小而不聞 行無隠不形    荀子勧学篇

故に声は小にしても聞えざる無く 行は隠してもあらわれざるはなし

優れた人の声‐意見‐は小さくても必ず聞え行いは隠していても必ず世に現れる 原文 声無細而不聞 行無隠而不明  説宛 とある誤写か?

志意修 則驕富貴 道義重 則軽王公    荀子修身篇

志意修まればすなわ富貴あなどり 道義重ければ則ち王公を軽しとす

志がきちんとしていれば富や地位など問題としない 人間としての在り方が‐徳・人格‐出来ていれば権力に媚びることもない

渋沢栄一著「論語とそろばん」の冒頭部分。近代日本の基礎を築いた人物として今、注目されている人の著作を読み返すのも、混沌の現代を原点に返つて考えるという意味からもいいことかもしれません。今度の新一万円札の肖像に決定、大河ドラマでも取り上げられている、歴史的人物の中で一番旬の人物かも知れません。

でも、なぜ今渋沢栄一なのでしょうか? どなたが光を当てたのでしょうか?光が当たるようにしたのはもしかしたら、日本を守っている神々かも知れませんね

渋沢栄一の著作関係では「論語講義」が有名ですね。文庫本も出版されていますし、一度じっくり読んでみてはいかがでしょう。

お手頃なのは 「渋沢栄一100の訓言 渋澤健 著 日経新聞社

 何事も結構

私は運命と云うものは不思議なものだと思います。人は皆夫々志を立てるのですが中々思い通りに行かないし実現しにくい。希望とは逆の道が自分にぴったり合って成功する場合もあるのです。だから私は余り一つの事をくよくよ気にしない方がいいのではないかと思います。世の中で自分が判っているのは一%程で後は暗中模索。始めから何もわからないと思えば気も楽でしょう。兎に角人間には様々な姿があっていいと思うのです。恵まれた生活も結構だし恵まれない暮らしも結構と云う気持ちが大切だと思います 。                                          松下幸之助「一日一話」6月6日

自分には何でも分かっていると思うより、わかっていない事の方が多いというところに軸足を置いていた方が、何かあっても痛手が少ないということになるのかも・・・ 

石原慎太郎著「法華経を生きる」のなかには

「人間の知恵でしかないインテリジェンスのもたらす不幸」という言葉があります。自分が認識しているものしか信じないということが、結局人間を不幸にしているということにもなるかもしれません。もっと大きな力を信じることも大切。自分の無知を知るということは形而上的なことだけではなく現実生活を生きていく上にも大切なことなのでしょうね。

南洲翁のことば

廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(○書經)仲之誥(チュウキコウ)に「徳懋(サカ)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。         西郷隆盛    遺訓

今まで安岡正篤師の百朝集を中心に倫理観や生き方・考え方の参考になるような言葉を選んでそれに感想など加えてきましたが、これからも基本的には変わりません。が、ちょっと幅を広げて、今話題の渋沢栄一翁の言葉や、松下幸之助、中村天風といった先人たちの言葉の中から、其の時節時節に応じて選らんでいきたいと思っています。

今回は、西郷隆盛の遺訓その第一節、よく引用される言葉を挙げました。現今の政治家の皆様、特にその中枢に入る方々は必須の書簡だと思いますが、今どきの政治家で知っているような人いるのかなと思うような、昨今の政治家の在り様に思えてなりません。早くこのような志高い人が現れることを願ってやみません。

三学

百朝集47章

少くして学べば壮にして為すあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば朽ちず                       佐藤一斎「言志晩録」

安岡正篤解

若い者の怠けて勉学せぬものを見る程、不快なものはない。碌なものにならぬことは言うまでもないが、まあまあ余程の碌で無でなければそれ相応に勉強する志ぐらいはあるものである。壮年になると、もう学ばぬ者、学ぼうともせぬ者が随分多い。生活に遂われて忙殺されておる間に、だんだん志まで失ってしまうのである。そうすると案外老衰が早く来る。所謂若朽である。肉体だけは頑強でも精神が呆けてしまう。反対に能く学ぶ人は老来益々妙である。但し学も心性の学を肝腎とする。雑学では駄目である。古詩bにいう通り「少壮努力せずば、老大徒に傷悲せん」こと間違い無い。でなければ呆けたのである。これに反して、老来益々学道に精進する姿ほど、尊いものはない。細井平洲も敬重した川越在の郷長老奥貫友山の歌に「道を聞く夕に死すとも可なりとの言葉にすがる老の日暮らし」こうありたいものである。そして「老獪晴天に参す」るようなのは実に好いではないか。

松下幸之助「一日一話」3月17日項

修養に場所を選ぶな

人は若い時の心がけ如何に拠り後に随分差 の生じるものである。若し若い時代に自己実力の養成に励まず修養に努めなかったならば、必ず後年後悔をする時が来ると思う。然るに若い人の間では、この仕事は自分に合わないあの主任の下ではどうも働き甲斐がないと、不足を漏らす人がある。これは自己中心のものの考え方の弊害であろう。真に自己の適所を見出す迄には色々経験を積まなければならない。又性格意見の異なった指導者の下で自己を磨く事によってこそ、却ってよりよく修養が得られるものであることを深く知らなければならないと思う。

学ぶことは意思さえあれば、いつからでも、どこででも始められる。時間がないというのは、いいわけに過ぎないと安岡正篤師も松下幸之助翁も多分 いうことでしょう(*^_^*)

六錯&六知

百朝集第55章 六錯

奢を以て福有と為す。詐を以て智有と為す。貪を以て為す有と為す。怯を以て守有と為す。争を以て気有と為す。瞋以て威有と為す。 金襴生「格言聯壁」

世事は往々顛倒錯覚され易い。豪奢な生活必ずしも幸福ではない。が世人は奢即福と錯覚しがちである。深省すべき問題である。威張りたがる人間に限ってよく人を𠮟りつける。六錯実に世間の欲情を穿っている       安岡正篤解

百朝集第56章 六知

静坐し然る後平日の気浮けるを知る 黙を守りて然る後平日の言躁がしきを知る事を省いて然る後平日の心忙しきを知る 戸を閉ざして然る後平日の交濫りなるを知る 欲を寡なうして然る後平日の病多きを知る 情に近づきて然る後平日の念刻を知る                    金襴生「格言聯壁」

今の知識人は外物を知る事を知って、内心を知る事を知らない。技術者は外物を操作することを知って、自己を左右することを知らない。我々はこういう風に時々反省し、操作して、往々失い易い真実の自己と生活とを保全しなければ為らぬ。                           安岡正篤解

金欄生とは 中国清時代の篤行の長者で思想家。生没は不詳日本で云えば江戸時代中期位の人物と云うことでしょうか。金欄生の言葉も安岡正篤師のことばも現代当に、現在の日本の状況を見透かしているかのようなことば。でも、こういうことは今ではあまり、重要視されていないような世情になってしまっているようですね。ヒトの根本にかかわるところがお座成りにされているところに、現代の歪の原因があるのかもしれませんね。