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快著「逆・日本史」

著書紹介第2弾

前回「影の現象學」のあとがき書評を紹介しましたが、今回は「逆・日本史」
考古学者 樋口清之教授の著作全4巻のあとがき書評紹介いたします。

[影の現象学」の書評では名著であると紹介していましたが、今回の「逆・日本史」は快著であると紹介されています。読んでいて痛快さを感じる事の出来る面白い通史と云う事になるのでしょう。「逆」というだけに、歴史を今の時代(昭和)から段々と遡って考古学の時代までを俯瞰するというもの。内容は、ご自分で実際に手にとって読んでいただければと思います。

【著者経歴】

1909年奈良県生まれ。国学院大学を卒業。現在(S60年代現)同大学名誉教授。日本考古学の創成二多大の貢献を残すが、特に登呂遺跡発掘は有名。 また、日本および日本人へのユニークな視点と独特の口調で、数多くのファンを持つ。「梅干しと日本刀」他著書多数。
(1909年 1月1日 – 1997年 2月21日

巻一末尾(書評)

読んで一気に巻末に至る快著   渡部昇一

「梅干しと日本刀」を詠んだ時の強烈な印象を、まだ覚えている人も多いと思う。ユニークな視点から、日本人の本質に迫る道を示してくれたからである。日本人は外から触発されて発明し、改良する天性を持っていることを最初に示されたのも、この本であった。

その樋口先生が、まず自分自身の事から書き始めるという「逆に読む日本史」を出された。面白くないはずがない。読んで一気に巻末に至ると云う事になる。

更に樋口史学の特色は、文献のみならず形而下的な、物質的な処にも、目配りが行届いている事である。例えば食い物の話である。源氏と平家の食い物が違っていたことと勝敗の関係などは、この前の戦争の体験者には身につまされる話である。而も決して唯物史観には堕していないのだ。

 

逆・日本史1(1~4)

庶民の時代・昭和→大正→明治 

樋口清之著 NONBook 昭和61年11月25日初版

松本清張 あとがきコメント

逆・日本史の試みに喝采

歴史事実の結果を集めて、説明する。一般の歴史に対して、もし今から年代を遡って、歴史事実の起こった必然性を追求する。いわば本当の『倒叙・日本史』が出現したらと、期待を持つのは、私一人ではないであろう。いや、本当の歴史とは、歴史事実の原因と必然性を、時間の流れを逆に追及すべきものだとも言えそうである。

しかし、教科書が中心になって、今日に至る歴史の動きを常識化してしまっている現代で、ひとりこんなことをやっても、異端者として批判されるだけだろう。

その困難の中で著者は、勇敢にその私案をここに纏めた。私は著者と相識る事何十年、心から著者の試案に拍手を送りたいし、その成功を祈ってやまない一人である。

逆・日本史2(1~4)

武士の時代・江戸→戦国→鎌倉 

樋口清之著 NONBook 昭和62年2月5日初版

会田雄次 あとがきコメント(京大名誉教授)

日本人の本質を説き明かす

学者の核歴史はつまらない、と云うのが世間の常識である。しかしながら、樋口先生が語る歴史は、例外なく面白く、そして為になる。

歴史は虚と実の間の薄い膜を縫う布のようなもので、其の織り方の上手・下手が布と模様の善し悪しを決める。樋口先生は名人との云うべき其の織り手なのだ。

本書は江戸時代から遡って鎌倉時代に至る「士の時代を」を取り扱ったものだが、素の武士政権の期間にも、此れほど優れた人物、面白い人物、巧みな技術等々が満ち溢れ、流れていたのかと驚くほど多くを教えられ、あらためて確認させていただいた。 日本人の本質が何かを知りたければ本書を読むべきである

逆・日本史3(1~4)

貴族の時代・平安→奈良→古代 

樋口清之著 NONBook 昭和62年3月31日初版

山本七平 あとがきコメント

巻を措くあたわず 興味津々の一冊

なせ現代があるのか、其れは明治時代があったから。では、なぜ明治時代があったのか。それは徳川時代があったから——。こういう形で歴史を逆行していくと、鎌倉幕府に突き当たる。

では、まぜ幕府が政治の中枢になったのかといえば、其れは四百年続いた平安時代があったからである。そしてそれを支えたのは、表の公地公民制と裏の私地私民制という奇妙な対背だが、其れを出現させたのは藤原氏と云う策謀家。だが実は、彼らは蘇我氏のやり方を踏襲している。では蘇我氏は?・・・・・と云う形で、本書は「なぜ」を解きつつ、日本民族の始原にまでさかのぼる。まことに興味津々、巻を措くあたわずとは、こういう本の事をいうのであろう。

逆・日本史4(1~4)

神話の時代・古墳→弥生→縄文 

樋口清之著 NONBook 昭和63年3月1日初版

堺屋太一 あとがきコメント

歴史に面白さを取り戻した快著

神話は歴史ではないー此のことは、戦後事の外強調されてきた。しかし、神話が生まれ伝えられてきたという事実は、まぎれもなく歴史である。このことを、戦後の歴史教育は忘れていたのではないだろうか。

人の世は、ものと心から成っている。人の世を語る歴史も亦、昔日のものと心を等しく語らなければならない。戦前の歴史観は、日本人の心ばかりを強調して空想化したが、戦後のそれは、物ばかりを重視して美と志を見失った嫌いがある。著者は、其の双方を語れる碩学だ。歴史に面白さを取り戻した。「逆・日本史」が歴史と神話を繋いで見事に完成した事を喜びたい。

名著「影の現象学」

遠藤周作のことば


河合隼雄 という深層心理学者を知ったのは、数十年前に或るTV番組で、京都大学での最後の講義が特集番組として組まれていたのを観た時が初めて。

其れから興味を覚え、河合先生の著作を色々と拾い読みを始めた。所謂ユング派の心理学ー深層心理学とも言われる分野の第一人者による著作品ですが、別にアカデミックな内容のものばかりでなく、エッセイ的に書かれたものや、対話集や、分野として判り難いと思われるところを、素人にも分かり易く解説して非常に面白い内容のものばかり。

当時、よく読んだ本と云えば、安岡正篤師の本、梅原猛先生の本とこの河合隼雄先生の本と云う事になります。

河合隼雄 先生はNET上など一般的に紹介されているのは

日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。また、箱庭療法を日本へ初めて導入した。臨床心理学・分析心理学の立場から1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献した

等と云うもの。

ここでは、全くの門外漢である私が読んでも非常に面白いと思った「影の現象學」と云う作品。内容は皆さん興味を持たれたら読んでいただきそれぞれに感じて頂ければと思います。

ここで紹介するのは、本のあとがきです。

キリスト教の信者としても知られ信仰をテーマに沢山の文学作品を残されている遠藤周作氏が「自分はこの本によって救われた」「この本は紛れもなく名著である」と言い切っています。                        何故そうなのかと云う事を熱く綴られていますので、少し長いですが全文をご紹介します。

ご興味を覚えられた方は、この本と共に他の著作品も読んでいただければ嬉しいですね。

あとがき書評 推薦の言葉 遠藤周作

これは名著である。少なくとも私ははじめてこの本を読み終わったときに味わった何とも言えぬ充実感は今でも忘れられない。

私のように少年のころから古い型の基督教の教育を受けたものには人には言えぬ悩みがつきまとっていた。

その悩みは大まかに言うと自分は二重人格者ではないかということだった。  いや、二重人格者どころか三重人格者ではあるまいかという気持ちが絶えずつきまとっていたのである。当時のことながら私が受けた基督教教育では表と裏とを使い分ける若者をおぞましいものと看做していたし、当時の日本社会でも裏のある人間は陰険で男らしくない、卑怯な男子と考えられていたのである。

私は比較的にスナオでなかったから、戦争中の日本社会の教える道徳を馬鹿にしていた。しかし馬鹿にしていることを決して外に出してはならぬ時代だった。一方、教会で要求する「きよらかな魂」にはどう努力しても至りつけぬことに本気で絶望していた。

恐らくその頃の青年は誰でもそうだろうが、私は生活の為に仮面をかぶっていた。周りを悲しがらせぬため教会には熱心に通い、周りの者のイメージに合せたり時には自己錯覚までして神父になろうと考えたり、そのくせそういう皆から愛される自分が仮面を被っている偽善者だという痛烈な自己嫌悪を持ち続けていたものだった。

仮面がある以上本面がある筈である。外づらがある以上内面がある筈である。内づらとは世に言われるように家庭に於いてのみ見せる顔ではない。人は家庭でも妻や子に対して仮面を被るのが普通だから。ほんとうの内づらとは正宗白鳥が言った「どんな人にもそれを他人に知られるくらいなら死んだ方がマシだという顔がある」というその顔である。

それをユング学者の河合先生は影(シャドオ)と謂う言葉で表現されている。正直いうと影と謂う言葉は本身に較べて仮身という感じがするが、この本をお読みになると影の方が本身で、われわれの本身のほうが影かも知れぬとさえお思いになるだろう。

私は内づらと言ったが、内づらにも二種類ある。

他の人は誰も知らないが自分だけが知っている自分の顔。もうひとつ、他の人は勿論自分も気づかない自分のもう一つの顔。

私の友人に井上神父というカトリック司祭がいるが、彼が「世にも怖かった話」としてリヨン時代の出来事を話していた。

神学生の頃、彼はリヨンの老夫婦の経営する家に一夏下宿していた。その家の夫は病弱で妻はとても献身的だった。そして医者は妻に夫の為に食事療法の大切さを説き、病院が食べていい物と食べてはならぬものを教えているのだった。

だが井上神父が不思議に思ったのは毎夜食卓に出る愛情を込めて作られた料理は―医師から禁じられているものだったのである。井上神父は吃驚して病人の妻にそれを注意した。

妻はよくわかっていると泪ぐみ、その翌日も翌々日もやっぱり「食べてはならぬ食べ物」を夫の皿にのせた。そして夫が其の為にぐったりと疲れ、胃の苦しみを訴えると妻は泣いて悲しむのである。彼女は本当に夫を愛しているのだ。

この人間の複雑な心理。井上神父は終に怖くなって「その家を出て別の下宿に移った」という。

ああこれがリヨンの街だと私はその話を聞いたとき思った。リヨンの人たちはあまりに敬虔なオーソドックスな基督教信者が多い街である。だが私があの街に留学をしていた二年半、十一月から三月まで街はすっぽりと乳白色の霧に包まれる。そしてその霧の中をうろつく数多の影を見た。

あの影は単なる人影ではなくてユングのいう影だったのだ。私は今でも夢の中で私を追いかけてくるあの影をみる。影は―本書をお読みになった方はよくお分かりだろうが、私の分身なのである。もうひとつの私であり、私とそっくりの内づらをした男だったのだ。

勿論そんなことがリヨン時代の私に判る筈はなかった。しかし当時の日記を広げてみると (拙著「作家の日記」) そこには恰好のいい他人に読ませるようなタテマエの日記(例えば荷風の日記)ではなく、悪夢・影・小人・レジスタンスの虐殺場所やリヨン市の中でナチが拷問を行った地下室をそっと覗きに行ったことなどが多く書きつけてある。今にして思えばその古い建物の地下室をこわごわ覗き込んだのは、私は人間の心の奥底を、影の部分を見たかったからだと思う。

やがて小説家として書き始めたそんな私とりわけ心ひかれた作品は、フランソワ・モウリヤックの「テレーズ・デスケルウ」である。それはこの小説が恐らく最初に人間の無意識に手を突っ込んだ傑作だったからである。主人公の女性は善良な夫にある日、毒を飲ませるが、其の毒を飲ませた心の衝動を作者は一行も説明しない。そして当の女性もわからないのである。それは彼女の無意識から発した「何か」が行わせたものであり無意識はあまりに混沌としているから、小説家にとって分析できないのである。

この小説に惚れ込んだ頃、私は無意識とは暗黒のドロドロとした、そして罪の母胎のような領域と思っていた。それはひとつにはモウリヤックがフロイトを通して無意識を知ったこともあろうし、また私が学んだ西欧の基督教伝統では、理性的ならざるもの、意識的ならざるものは寧ろ排斥される傾向があった。必然的に無意識は何となくおぞましいもののように思われていた。(基督教に於ける神秘主義の扱いにはそういう傾向がある)

このことは私自身にも自分の心の奥にある影の部分を忌まわしい暗いものの集積として考えさせた。それが私に二重人格、三重人格と考えさせていたのだろう。

だからはじめてこの「影の現象学」を読み終わったとき、私は何とも言えぬ悦びを感じた。二重性、三重性は私一人ではなかったのだ。それは人間そのものの心の構成をなしていることを教えてくれたからである。

のみならずユングと河合氏とはフロイトと全く違って、無意識の中に創造的な力を強調している。無意識は我々人間に深い洞察力や将来を見通す眼を与えてくれ、そして多くの芸術家に力を貸してくれる協力者でもあることを述べている。

この本がきっかけとなって、私は人間を描くうえでいろいろな視野をひろげることができた。例えば、文化人類学の本にも興味を持ち始めたのも、日本で最も優れた深層心理学者の河合教授のもろもろの著作の御蔭であることはいうまでもない。

それまで非科学的、非客観的(?)奇怪な非合理的なものとして一笑にふされたり、単なる「偶然」としか考えられなかったものに、東洋思想や仏教の考えを改めて尊重してくれる起点もこの本の中に含まれている。大きく言うならば、私は「科学と宗教」の調和という、おそらく二十一世紀の思想の足音をこの本の中に聴くことも出来る。

そういういろいろな可能性をこの一冊の本が含んでいることを読者は知って欲しい。繰り返すがこの本は戦後の名著の一つなのだ。

※ 宗教=誤解の無いようにいっておくがこの「宗教」という意味は従来の限られた教団と信徒を持っている既成宗教をさすのではない。人間とその人間を超えた大きな命を重視する宗教の事である。正確に言うならば「宗教性」と言った方がいいかもしれない。

影の現象学 河合隼雄 講談社学術文庫 1987年12月10日初版より

中村天風のことば

中村天風一日一話

元気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 HP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【五月の言葉】

*二日 社会の改善をする為に

常に善良な言葉人を勇気づける言葉人に喜びを与える言葉已を使っている人が、増えれば増える程この世の中って云うものはぐんぐん光を増してくるんだよ。そういう人が増えない限りはどんなに社会改善を行おうと国家改革を行ったって駄目だよ。社会だ国家だって結局人間の塊だもの、人間自体がだらけた腑抜けた始末に負えない弱音ばかり吐いていたら、社会は改善できないし立派な国家には出来ないんです。

*四日 つぶやきの自己暗示法

低級な欲望や劣等感情情念がヒョイと心の中に発動してきたなと思ったらねソリロキズムと云うのをやってもらいたい。日本語に訳すとつぶやきの自己暗示法と云いましょうか。何も口にブツブツ出さなくていいんですよ。観念で独り言を言えばいいんです。こんな事に腹が立つかこんな事悲しくない自分はそれ以上勝れた心の持ち主だと云う風に自分自身が一人でつぶやくのをソリロキズムと云うんです。此れが又バカに効き目があるんですよ。

*七日 自己を作るものは自己也

他力依存の態度では到底自己自身からの実現性が何としても発揮され得ない。自己を作るものは自己也という真理は真に侵すべくもない絶対的なものである。

*九日 笑いは人間の特権

平素人生に活きる時に努めて明るく朗らかに活き活きと勇ましく生きる努力を実行すべきである。と同時に此の意味に於いて私は大いに笑いと云う事を礼賛する。笑えば心持は何となく伸び伸びと朗らかに成る。この簡単な事実を案外多くの人は見逃している。人間は万物の霊長として重い大きな負担を負っている。笑いは其の疲れた心や体を程よく調和させる様に人間に与えられているものである。

*十三日 原因の無いものは無い

凡そ此の世のありとあらゆる事物の中に原因の無いものは絶対に一つとして有得ないのである。此の事が絶対真理であると云う事は自分の言動や仕事などの結果に、何か意に満たぬものがある時それを子細に検討すると必ずや力か勇気可若しくは信念が欠如していたが爲だという原因的事実がある。

*十六日 心身統一法は修行に非ず

心身統一法の目的は人間の生命に賦与された本然の力の完全発揮であるが、その方法を修行として行ったのでは第二義的となる。では第一義的とは何かと云うと其れは講習や書籍或は行修を通して教える各種の方法を日常行事として行う事である。即ち特別な機会に特別な気持ちで行う等と錯覚してはいけない。だから一人一人の日常生活の其れ自体が其の人にとっての心身統一法其の物でなければならない。

*二十日 調和ある処完成有

そも調和と云う事は厳粛なる宇宙本来の面目であり且つ復人生の実相であると同時に、生きとし生ける生物の生命の姿なのである。言い換えると調和と云う事は、万物存在の絶対に侵すべからざる尊厳なる自然性なのであると云う事を理解されていると信ずる。またこれは論より証拠で調和のある処のみ所謂真の完成と云うものがあって、反対に調和の無い処には絶対に完成と云うものはあり得ないのは一切の事物事象に明瞭に現れてくる。

*二一日 孤立と独立は異なる

抑々孤立と云う事と独立と云う事は全くその意味を異にしている。勿論独立と云う事は正しい自覚を持つ人間として最も尊い人生状態である。が然し孤立は天理に反する無価値のものである。である以上自分の事のみを考えて他の人々の事を考慮に入れない人生観や生存生活の方法と云うものは、自分では寧ろ気付かずともそれは取りも直さず孤立と殆ど五十歩百歩、些かの異なりもない状況なのである。

*二三日 深呼吸の進め

クンバハカ(精神反射の調整法)を応用しながら日に何千回でもいいから深呼吸する事を稽古しなさい。息は吸う時よりも出す時が肝心なのよ最初、肺臓の悪ガスを出す事が大事なんです。呼吸なんだから呼の方から先におし。斯う云う呼吸法をやっているといざと云う時にクンバハカがぱっと出来るばかりでなく、落ち着いた気分が求めずして自分の気持ちの中に出て来て、今迄の様に感情や感覚に矢鱈引きずり回されなくなるんです。

*二五日 人間は一個の小宇宙

人間の生命の中にはこの宇宙の中に存在する在りとあらゆる一切のものが悉く存在していると云う不思議な事実がある。此の宇宙は所謂物質によって形成されている。そしてその物質は大別して動物植物鉱物の三種に分かれる。然るに我々人類の生命の中には以上の一切の物質が各種の形態の下に悉く存在しているのである。哲学者が人間を一個の小宇宙也と形容しているのもその理由は此処にある。

*二六日 言葉は人生を左右する

万物の根源である気が人間の心の中に入って観念となりその観念が施行となる。そしてその思考が一方に於いて行動となり他方に於いて言葉となって表れる。是は人間の身が創造主から与えられた恩恵で在り他の動物にはない。言葉と云うものは思考が結集し其れを表現する為のものである。言葉には人生を善くも悪くもする力がある。だから言葉は人生を左右する力のある哲学で有科学であると云う事が云える。

*二九日 進歩の階段

人生は心の操縦を完全にする事が重要である。人間の心は常に発達しているので瞬間と雖も之を等閑に附してはならない。人類の心が今日に為る迄には実に長い時の経緯と数多い進歩の階段を踏んできている。そして今後も進歩の階段を昇っていく。従って心を完全に操縦するには、潜在意識を正しく理解しその運用を的確にして心が其の進歩の階段を的確に踏みしめて登れるように、側面から誘導する事が肝要である。

*三一日 自力で生きているのではない

どんな慌て者だって自分の力で生きているとは思わないでしょうな。若し自分の力で生きているなら時が来ても死ぬ筈は無いじゃないですか。何時までも自分の力で生きておられる筈ですし現在在るが儘の自分を保っていられる筈です。処が自分の力で生きていない証拠には今から後十年経ってごらんなさい。現在の自分とは同じではないですから。自力でなく他力で生かされているからこそ時の流れと共に変わるんです。

俳句ー猫

😺猫の春夏秋冬-2(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

前回に引き続き駄句へお付き合いお願いいたします(=^・^=)💖
今回は秋・冬+新春の句です
最初にお詫びです=^_^=なるべくこちらで撮りおきの写真を使おうと思いますので、写真と駄句のイメージや季節的に時期がちょっとズレている処もありますが、其処は皆様の想像力で補って頂ければと思います。

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百万回生きた猫読む盂蘭盆会

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秋の虹二十三年生きた猫

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ゆく秋や猫は里子にもらわれて 

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猫に明け猫に暮れはや大三十日
年の瀬の闇に子猫の声幽か

春(新春~)

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元旦や玄関先のさくら猫

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 涅槃西悟りきったる猫の顔

お付き合いありがとうございました(=^・^=)ニャ~💖
また、機会あれば折々に詠んでみたいと思います。

https://note.com/2019dobutu

俳句ー猫

😺

猫の春夏秋冬ー1(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

折々に猫たちのことを詠んでいました。謂わばメモともいえます。其の中から幾つかをあげて見ます。春夏―秋冬 に分けてご紹介いたします。どうぞ駄句(=^・^=)にお付き合いお願いいたします。
最初にお詫びです=^_^=なるべくこちらで撮りおきの写真を使おうと思いますので、古い写真もあり、また、写真と駄句のイメージや季節的に時期がちょっとズレている処もありますが、其処は皆様の想像力で補って頂ければと思います。

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長閑さや横断歩道渡る猫
春うららとなりの屋根に猫二匹

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子育てののらの背中にがんばれよ
野良猫(ノラ)の子よしぶとく生きよ沈丁花

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猫の目の奥は魔界へ五月闇

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梅雨明けと共に保護猫家を出て
猫の目の定まる先の蜥蜴かな

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本にあごのせて仔猫の昼寝かな
親子猫茅ノ輪をくぐる夜明け前

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夏木立お狐さまのやうな猫
ノラ暮し炎暑を凌ぐ知恵もつき

お付き合いありがとうございました。
明日は、秋と冬の句を紹介します(=^・^=)💖

https://note.com/2019dobutu

204

保護猫近況(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

特定非営利活動法人「あおぞら」のブログ投稿記事より転記したものです。

内も外も・・


昨日は雨模様❣❣ 大雨となった地域もあるようですが、ここ門司港は其処迄ひどいという降り方ではなかったようです。
気温も一時期に比べると、雨模様でも極端に冷えると云う事も無く、いわば「催花雨」・「木の芽起しの雨」ということになるようですね~💖
家の中の猫達も外の猫達も、其々のお好みの場所で、ゆっくり過ごす時間が増えてきた様です。

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家出中の親子猫「てん」と「にゃんにゃん」も大分、過し易くはなってきた様で、近頃は、雨・風よけの物置の中で過ごす時間も短くなってきた様。

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子供の「てん」の方は、既に外暮しが2年目になって、最早、地域猫の風貌になってきていますが母親の「にゃんにゃん」は少し前までは家の中で過ごしていたんですがね~(=^・^=)

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家の中に保護していた当時の「にゃんにゃん」横のキジは夫猫の「ふー」


家の中、恋しくないのでしょうか。
大人しい😻だったので、大勢の保護猫の中で夫猫「ふー」と過ごすよりも、子供の「てん」とのんびり外暮らしの方がいいと判断したのかもしれませんね~。
食べるのも寝る場所も仲良く殆ど一緒に過ごしているようです。

今は無理をせず、外が嫌になったらそのうち戻って来るかもと云う感じで、気長に待つことにしています💖

家の中では、毎朝、ひと暴れしないと落ち着かない「しま吉」や、2Fのベッドから殆ど動かない「ちょろ」「とび」「ちび」等過ごし方さまざまですが、春っぽいこの時期ともなると、昼間は、やはりのんびりと寝ている時間の方が増えてきている感じです。

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少し、問題なのが、普段は2Fにいる「くろ」が時々下に降りて来て「しまきち」にちょっかいを掛ける事❣❢ 今迄はそんな事なかったのですが、如何した心境の変化なのでしょうか。

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一番若い「もふ」も随分、落ち着いてきた様で、お気に入りの段ボールの中でのんびりしている時間も増えてきた様子(=^・^=)夜もゲージから出てみんなと一緒に寝ていても大丈夫。

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預り中の「ふく」と「まろん」も段々と環境に馴染んできてくれている様子。時々、ゲージの外と内とで、家の中の保護猫達と見合っている事もありますが、両方とも威嚇する様な事も無いようです。

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其々のお好みの場所で、それぞれにトラブルなく過ごしてくれれば、其れが一番ですね~❣❢

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中村天風のことば

中村天風一日一話

気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【四月の言葉】

*一日 聖賢というものは

優れし人言い換えると蘂手の真理を知っている聖賢と云うものは、心が只単に積極的であるばかりでなく本当の心の強さの中に気高さを持っている人の事なんだ。心の中の気高い強さと云うのは結局要するに卑屈に痩せ我慢で強さを造ろうとするのでなくて淡々として少しも気張らずに強く成り得ていることを言う。だから優れし人には絶対に不運と云うものは来ない。

*二日 真の健康と食物

地上の動物はその食物の種類で凡そ次の三種に分類される。肉食動物・草食動物・果食動物である。元来動物は生きていく為に新陳代謝を行うが、その作用で大なり小なりの毒素は絶えず発生し血液やその他全身の組織の中に存在している。然るに動物を食すれば其の毒素は無条件に食した人の体内に入ることに為る。菜食は肉食よりも遥かに優れているがあらゆる点から見て理想的な食物は果物である。現実的には植物性を七割以上動物性を三割。以下としつつ極力果物を多く摂る様にすべきである。

*四日 積極的態度

何でもない時は矢でも鉄砲でももってこいと云う気に為るけども、健康上に故障が有ったり運命上に少しでも儘為らない事があると、そういう場合こそより一層心の態度が積極的で有らなきゃならないのにすぐ青菜に塩みたいになってしまう。こう云うのを積極的態度と云うんじゃないんですよ。どんな場合があっても積極的と云うのは心の尊さと強さと正しさと清らかさが失われていない状態を言うんです

*六日 外界印象の取捨選別

精神生命に外界の印象を受け入れる時には、その印象を受け入れて良いものか悪いものかを吟味しなければいけない。然しこの時の半分の半分も注意しないで受け入れてる人が多かない?それが結局貴方方を気の弱い神経過敏にしちゃった。神経過敏な人と云うのは五か十ぐらいの僅かな刺激ショックも其れを心に知覚せしめる時には百二百に誇張して感じさせてしまう。斯う云う人は精神生命に外界の印象を受け入れる時此れからは特別入念に吟味して取捨分(選)別を完全にしなきゃいけない。

*八日 人生と心の法則

我々の生命の中にある肉体は勿論精神生命も一切の広い意味における人生の事柄は、心の運用如何に拠って決定する事が出来るという真理を私は覚り得たのである。人間の心で行う思考は人生の一切を創る。この法則を巖として自覚して常にこの法則を乱さないように活きるならば人生は期せずして大きな調和の元に満たされる。そして無限の強さと生命の無限の自由と云うものは自然的に出てくる。

*十日 自分自身と云う存在

自分の心や肉体の存在を意識的に自覚したのは多分生後三年か餘年たってかれであろうと推定する。そこで自分で自分に聞いてみる。自分自身が心や肉体の存在を意識的に自覚しなかった当時自分と云うものが存在していなかったか如何か?言い換えれば自分夫の生命は存在していなかったかどうかである。私の生命は自分自身心や肉体の存在を意識的に自覚するかどうかに関係なく、既にその以前から立派に存在していたのである。

*十三日 理智に依存しない人生

理性や感情と云うものはその人の心身に享受した教養や又は経験から培養された理智を根源とすると云う忽諸に附す可からざる大きい事実関係がある。然し理智なるものは常に間斷無き発育的情勢を以て推移していると云う相対的なものである。然るに斯くの如く多分に変移性を持つものに人生生活を依存すると屡、其処に図らざる蹉跌が生ずるのは必然で煎じ詰めれば人生の悲劇も地獄も不平も不満もそうした無自覚を基点として発生するのである。

*十五日 無駄な精神消耗

神経系統と云うものは人間の命を活かす生活機能の中で一番大切なもの言い換えれば神経系統の生活機能のお蔭で我々の生命は斯うして生き永らえているのであるが、やたら気取ったりぶったりしている人は勿論自分では結果にそう云う良くない事実が生じてくる事に気付かないで、否気付かないと云うよりも無知であるが為に考えること無しにと云って好い程無頓着で矢鱈と価値の無い無駄な神経消耗を殊更に行っているのである。

*十八日 苦行より自覚

真理と云うものを知らなかった時代の私は、何か苦行をするとか或は特別苦心の研究と云う様な事をしない、完全に理解する事が出来ない様に思っていた。然しそうじゃない。現にインドに行って耐えられない難行苦行は余りしなかった。しないでも真理を掴めた。苦しい修業をしてからでないと自分は強くなれないと考えていると、強く生きられないのが自分の無自覚からきていると云う事に聞か付きません。

*二十日 悟れば幸来る

悟れば一瞬にして幸来る此の真理が心の中に輝くと健康も運命も共に求めずとも完全に成る様に出来ているのが人間なのである。其れは心と神経との関係を考えればすぐ実証される。そしてこの宇宙の生命エネルギーを自分の生命に受け入れるのも復そのエネルギーを全身に分配するのも神経系統が行っていて、その神経系統が直接または間接に心の支配を受けている爲であると分かれば、どんな人間でもこの厳粛な事実の上から自分の心の立派な論定が出来るに違いない。

*二二日 不平不満の悪影響

知る識らざるを問う事無く不平不満を口にすると云う心持をその心に持たせると、人間それ自身を不幸にする場合が多く招来されて、決してその心的態度から幸福と云うものは発生しないのである。と云うのは直接的には判断力断行力更に精神力と云うものがどんどん委縮減退し、間接的には体力や胆力果ては精力まで其の良くない影響が波及されて、結論的に言うと生命力の一切が劣弱になってしまうのである。

*二四日 内省検討と暗示分析

病難に際し又は運命難に直面した場合には平素充分心身統一法の理解に透徹していると思っても、そう云う場合修養未完成の人はその事柄に引きずられて知らず知らず心の平安を失いその結果独立自尊と云う尊厳な立場から他力依存と云う勝階級の極めて低劣な方面へと自己の心的態度を転移して、無益な焦燥と混迷を敢えて為すと云う愚行を行う恐れがない訳では無いから、そういう場合に更にさらに入念周到に内省検討と暗示分析とを実行して心境の浄化清純に努力されるよう心より付言する。

*二七日 運命について

運命には二種類ある。天命と宿命である。店名は絶対で宿命は相対的である。如何にも仕様の無い運命を天命と云い人間の力で打ち開く事の出来るものを宿命と云う。女が女に生れ男が男に生れたのは天命である。りどうする事も出来ない。処が今の人は打ち開く事の出来る宿命にぶつかった時でも其れを天命と云う。自分の努力が足らない事は棚に挙げて如何にも仕様 がないと云う。

*二九日 世の爲人の為

富や地位を造って自分の人生欲望だけを十二分に満たす事已を想像すると云う事は断然排斥すべき向下的想像だ。宜しく健康想像と同様に金を造って、人の世の爲に尽す仕事を仕様と斯うなりゃ本物だ。又そうしなかったらその人にどんなに金が出来てもその金はその人に本当に安定した幸福を感じさせないんだよ。モデルが完全であってこそ作品も完全だ。想像は詰る所人生形成のモデルなんだ。

努力は報われることも・・🙀

NPO法人あおぞら

外猫・街猫との付き合い方は

何処でも、いつでも起こるトラブルとして、外猫・街猫へのえさやりの問題があります。
その点、ここ北九州の門司港は割と住民の皆様、外猫・街猫・地域猫に対しては鷹揚な対応をしてくれているようです。
一つは、住民の方々が、自ら避妊去勢手術等々の活動を個人的にまた、地域として取り組んでいることもあるのでしょう。

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それでも、矢張り無責任なえさやりさんのことが時々聞こえてくることもあります。折角の命を守ってあげようという善意の行い❣❢
出来ればマナーを守って行って頂ければ、お互い気持ちよく環境も守れるのではと思います。


先日、沖縄県議のえさやり禁止条例について、反対の声をあげられ署名活動を展開された「どうぶつ基金」さんからその後の経過の事がアップされていました。
唯、餌ヤリ禁止するのは悪いというだけではなく、外猫・街猫たちへのえさのやり方等々を提案して改善案を求めていると云う事です。

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ここでも、やはりポイントとなるのは「えさやりさんのマナー向上」は勿論のこと、飼い猫・地域猫・外猫等々に拘わらず、猫達に関わる方々の意識向上が重要と云う事のようですね。
猫達に責任があるというのではなく、関わるヒトに責任があるという自覚が大切な様です。

もうひとつ、云えば、現状では、外猫・街猫達の状況をある程度コントロールしてあげ、住みやすくしていく為にも避妊去勢も必要なこと。
行政による、相談窓口や資金的援助等々、積極的なバックアップ体制が出来上がれば完璧❣❢

こういった努力が報われて、猫達の命が守られれば嬉しいですね~(=^・^=)

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北九州 アニマイル動物診療所
公益財団法人 日本動物愛護協会 (jspca.or.jp)

公益財団法人 どうぶつ基金の報告内容


「沖縄県動物の愛護及び管理に関する条例(案)」
に関する意見交換会議事録


2 月 14 日沖縄県環境部自然保護課課長と主任技師が兵庫県芦屋市のどうぶつ基金事務局を訪れ「沖縄県動物の愛護及び管理に関する条例(案)」に関する意見交換会議が行われました。
まず最初に沖縄県からはパブリックコメントや署名、要望を受けたうえで以下の改定案が示されました。
沖縄県が示した改定された現行案 (2024 年 1 月 31 日)

第 10 条  所有者又は占有者を確知することができない猫に給餌及び給水(以下「給餌等」という。)を行う者は、生殖を不能にする手術を施した又は施すことを予定している猫その他規則で定める猫を対象として、容器を用いて給餌等を行うものとし、給餌等を行った後は速やかに飼料等を回収するものとするほか、周辺住民の生活環境に支障を生じさせることがないようにこれを行わなけれはならない。

どうぶつ基金からの提案
 猫が増える原因を作った犯人は餌やりさんではなく「無責任な飼い主」である。県は「無責任な餌やりさん」という言葉を多用しているが、そもそもお腹が減って可哀想なノラ猫に餌を与える行為は動愛法に基づいた行為である。そこには何の責任も伴わない。
ノラ猫が増える原因は、飼い猫を捨てたり、外を徘徊させ繁殖させた「無責任な飼い主」に、あるのは明らかである。

以上を踏まえて、どうぶつ基金から以下を沖縄県に提案した。
上記の現行案では「餌やりさん」の自己負担で不妊手術を求める内容となっており、住民同士の対立や「餌やりさん」へのいじめを招く懸念がある。そこで、以下のような内容を盛り込むことを提案。

1.     現行案の訂正案
第 10 条 所有者又は占有者を確知することができない猫に給餌及び給水(以下「給餌等」という。)を行う者は、容器を用いて給餌等を行うものとし、給餌等を行った後は速やかに飼料等を回収するものとするほか、周辺住民の生活環境に支障を生じさせることがないようにこれを行わなけれはならない。

2.     上記訂正案とは別に以下のような内容の条項を定める提案をしました。

o   市民は未手術の猫を見かけたら行政に報告し、県の動物愛護センターやどうぶつ基金さくらねこ無料不妊手術事業の制度を利用すれば、無料で不妊手術が受けられるので、猫ボランティアと協力してTNRを進める。

o   無責任な飼い主に対して厳しく対応する。ただし、屋内飼養の徹底は、沖縄という風土や県民性から実現不可能であるので、努力目標程度にとどめる。飼い主による飼い猫のマイクロチップ登録と不妊手術の義務化を徹底し、繁殖を望むものは登録許可制にするような仕組みづくりを要望する。

o   不妊手術予定のノラ猫と不妊手術の予定がないノラ猫の区別をすることは不可能である。また、どちらの猫も愛護動物であり保護される存在である。そのため、A、不妊手術済みまたは予定の猫と、B、不妊手術予定のない猫を区別して、餌やりの可否を付けるべきではない。

2時間にわたる会議では非常に有意義な意見交換ができたと思います。沖縄県もどうぶつ基金も「野良猫に関連して起きる問題を解決したい。」という同じ目標を持っており、今後もより良い制度設計ができるように話し合いを続けていきたいと思います。

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議事録はこちらから
 

法華経の世界

(凡人が思う法華経の世界つづきですー法華経memo)

日蓮上人のことば☞二十八品は正しき事は僅か也誉むる言こそ多く候へ 此經一部二十八品六萬九千三百八十四字一々に皆妙の一字を備えて、三十二相八十種好の佛陀也     (読誦妙法蓮華経)

(以下解及各品大意:読誦妙法蓮華経―S60年4月11日初版発行 良時會発行より)

【迹門分大意】

法華一部二十八品を二分して前十四品を迹門、後十四品を本門と称す。

本門とは無始塵點劫の以前始めて宇宙の真相に触れ釈迦牟尼仏が大悟徹底されたという一大事実が法華経の根本中堅をなしており、これを述べた部分が十四品、本門分である。而してこの一大事実がまだ社會に顕れざるに先立って其の理論的半面を説明せるものを迹門分と云う。即ち方便品に説ける諸法実相=十如是という大哲案である・・

此の事実を根本とする依り其の顕現せるものを本門といい、その反面を画けるものを迹門と称するのである。

迹門それ自身においては実に宇宙の大疑問を見事解決した一大哲学書である。

【序品一】

日蓮上人曰く、「瑞相と申す事は内典外典に附て必ず有るべき事先に現ずるを云ふ事也,蜘蛛かかって喜事来り烏鵲鳴いて客人来ると申して、小事すら験(シルシ)先に現ず如何に況や大事をや。されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞也」と

全體佛は法を説く前に必ず神変不思議な瑞相を示現せらるるが常である。

① 結跏趺坐 ② 無量義處三昧 ③ 身心動ぜず ④ 天より曼殊沙華等を雨し ⑤ 普佛世界六種震動 ⑥ 如来眉間白毫相より光を放つ

【方便品二】

日蓮上人に依り尤も多く用いられた語、意義は「便宜なる方法」と譯すべきか。

佛知見に相手を引き入れんとする方法、この方法手段は終極の目的と一致するものとそうでないものがあり、此処に日蓮上人のいう方便とは後者の意味である

曰く「以方便力四十餘年未顕眞實(無量義経)正直捨方便但惜無上道(法華経方便品)」☞日蓮上人は法華経以前の経々は方便仮説であるとした

少智楽小法自不可信作佛☞少智小法を楽ネガい自ら作佛せんことを信ぜず

  • 三止三請五千退座:「是の如き増上慢の人は退くも亦佳し矣

 ★ 開三顕一:菩薩・声聞・縁覚の三種の法を説くは所謂応病与薬の手段で知識に応じての方便、眞實の一佛乗(目的―悟りの極致)「に誘わんがため

  • 開・示・悟・入:仏が顕れるは自分自身にある所の佛知見を開き、示して、悟らし
  • め、その道に入らしめるため

【譬喩品三】

譬喩は法華経の生命。開三顕一の正説に次いで火宅三車の譬説をあげる。

火宅(娑婆)より救う為与えると約束した羊車・鹿車・牛車(声聞・縁覚-辟支佛・菩薩)の三車に対し大白牛車(一佛乗-佛道)を賜う譬喩

諸苦所因貪欲為本若滅貪欲無所依止☞諸苦の所因は貪欲為コレ本なり若し貪欲滅すれば依止する所無し

※(辟支はpratyeka の略音写、buddha の音訳) 仏語。仏の教えによらないで、自分で真理を悟り、その悟りの内容を人に説くことをしない聖者。ひとり悟りをひらいてそれを楽しむ仏で、独覚と意訳する。また、十二因の理法を悟るところから、縁覚ともいう。

信解品四】

法華経は信ずれば解自ずから生ずる妙為る法。信解と題する亦法華修行のの次第を示す品

舎利弗既に成仏の証言を得、須菩提他弟子たちも歓喜合掌し、無量の珍法を得たるを譬喩を以て佛に謝す 長者窮子の譬喩

【藥草諭品五】

衆は佛となるべき種性を具え、佛はこれを生長せしめておるところから薬草・藥樹に喩える

人天界の諸王は小草の如、三明六通の羅漢は中草、当に作佛を得べき菩薩は大草のごとし亦、菩薩においては専心に佛道を修し常に慈悲を懐けるは小薬樹、神通自在にして無上法を説き無量百千の衆生を教化するは大薬樹である。三草二木相異なるは各自の機根同じからざるに依る

【授記品六】

授記とは記別を授けるの意、「汝未来世に於いて当に成佛すべし」という佛の証言

劫・國・名号の三種の具体的内容を述べる:劫は時間を指し佛の寿命及び法の流布の期間 國とは成佛する国の名 名号は成佛する佛の名

第1回授記:法説周(方便品によるー法を聞いて悟りを開く) 

第2回授記:譬説周(譬喩品によるー譬を聞いて法を解するに至る)

第3回授記:因縁説周(化城喩品による-因縁を以て漸く法に至ることが出来る)

名号:佛陀の十號☞十種の殊徳を具する:如来―真理の人格化したもの ①應具―一切の人々の供養に応じて能く施主の功徳となる ②正徧知―正しく徧く知る乃ち正しき悟り ③明行足-修行が全て具備している ④善逝―妙往で悟りを開き佛となる(人間は地獄に行けば悪往・悪逝)  ⑤世間解―世間のことを如何なる事でも解する事が出来る ⑥無上事-すべての社会において佛以上の士無き事 ⑦調御丈夫―一切を能く調え御する丈夫 ⑧天人師-天も人も皆師をする ⑨―覚ったもの ⑩世尊-世間に於いて最も尊貴なるもの 之意

【化城諭品七】

方便品の法説☞上智 譬喩品の譬説☞中位の弟子 化城品因縁説☞低級知識の開発

三千塵點劫以前、大通智證佛が出世され十六王子のために法華経を説かれたという事実談。それを了解し易からんと城閣化現の譬を述べる。

十二因縁の法:無明は行に縁たり 行は識に縁たり 識は名色に縁たり 名色は六入に縁たり 六入は觸に縁たり 觸は受に縁たり 受は愛に縁たり 愛は取に縁たり 取は有に縁たり 有は生に縁たり 生は老死憂悲苦悩に縁たり 無明滅すれば則ち行滅す 行滅すれば則ち識滅す 識滅すれば則ち名色滅す 名色滅すれば則ち六入滅す 六入滅すれば則ち觸滅す 觸滅すれば則ち受滅す 受滅すれば則ち愛滅す 愛滅すれば則ち取滅す 取滅すれば則ち有滅す 有滅すれば則ち生滅す 生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す

【五百弟子授記品八】

授記を得たる五百の弟子阿羅漢等が衣裏(エリ)の寶珠の譬を述べる☞佛よ我等は酔人の様なものであった三千墨點の以前賜った寶珠の在るをも知らず聲聞の小果の満足していたのであるが然し、今、實因縁を聞いて始めて佛という珠の在りしを悟ることが出来た

【學無學人記品九】

學とは有學にて未だ學すべき余地ありという人、無學は最早学ぶべきもの更に無しという極位の羅漢を指す。この品は因縁説に基づく授記の第二段目となる

方便品より當品に至る八品を迹門分の本論とする。その中でも方便品を正中の正と立つ、是開三顕一が迹門の生命であるが故である☞迹門本論は聲聞の小果に執するを破するを要とするから本論は聲聞で満たされ菩薩の名は現れない。

【法師品十】

此の品より安樂品迄を迹門分の結論(通論)―佛教ににては流通分と称すー

末代に如何に法華経を弘めんとするかというに佛は五種の方法があるべきを説かれる。

  • 授持 : 有難いと信じ身に體して行う
  • 讀  : 法華経を看て讀み奉る
  • 誦  : 經文を看ず暗んじて読む
  • 解説 : 義を解し他の為に説く
  • 書冩 : 經を書寫して文書傳導を為す

是を五種の法師と名づく。何故法師というかは法を他に教え弘める故にそう呼ぶ

經典は数多くあれどこの經が尤も勝れたるものである。此の經の中には如来の全身が籠って居るから、此の經を外にして妙来の生命はないのである。此の經を持つ人は尤も如来に近接せるものといわねばならない。

【見寶塔品十一】

末代の法華経弘通の方法を説きその普及を可能なら〆んとするのが流通分-通論の役目

法師品にその受持の功徳を説き及び説法者の価値を論じた、次に一層力有ら〆んとする為に、更なる證明を加えなくてはならない。茲に於いて多寶塔の出現、分身の来集が説かれる。

  • 三變土田:分身の佛を十方の世界より娑婆世界に迎えるために清浄瑠璃の地へ變ぜしめる事三度に及びすべての佛を一緒に集める一佛國土と為した☞三乗を一佛乗に會したことを具体的に現したこと
    • 虚空會☞霊山會:神通力により大衆を虚空に住せしめ説法を行った
    • 三箇之勅宣:如来滅後の法華経弘通を誰が担うか受法者に向け三度誓約を迫られた
    • 六難九易の説法:法華経弘通のむつかしさの譬

【提婆達多品十二】 

提婆達多及び龍女の成佛譚

  • 二箇の諫暁:畜種女人の向上得果を説く☞二者ともに末代法華経を弘むる場合、悪人と問わず女人と論ぜず何れも妙經力の前に同一の證を得べきことを諭されたことを称して二箇の諫暁という

佛の従弟、提婆達多は非常な学者であった為に却って佛に変わろうとする野心を抱き阿闍世太子を語ろうて、彼に父の頻婆沙羅王を弑せしめ、新王とならしめ、自らは佛を殺またんとして、僅かに佛足より血をい出したに過ぎなかった。此れが後仏教に於いて尤も重科とされる五逆罪の一つ出佛身血の大罪。此れが為に提婆達多は大地割れ現身に無間地獄へと堕ちたとある。その大悪人の過去因縁を明かし之に天王如来の記別を授ける。次いで八歳の龍女が變成男子となり成佛を南方に示す。

【勧持品十三】

最後の二十行偈:日蓮上人☞悪口罵詈等及び刀杖を加うる者、又我身命を愛せず但無上道を惜しむ或いは屡々擯出せられん等全く日蓮が為に佛が記し置かれた

この品に於いて注目すべきは二大比丘尼の授記が提婆達多品の龍女成佛の次に許された事

日蓮上人☞龍女成佛を評して「末代の女人の往生成佛の道を踏み開けたる也」といわれた

【安樂行品十四】

末法に於いて法華経を弘通の為の修業:身・口・意・誓願の四行を説く

安楽行とは此の四法を行事たならば身も意も安穏快楽、便り尊崇せらるるを以ての故

  • 身安楽行☞行處、親言處の別有

 行處とは心の行く處出常に心柔和に辱めを忍び真理を達観すること

 親言處☞第一親言處 常に坐禅を好み閑静なる處に親言して心を修養する

       第二親言處 天地宇宙の真相を観じ、此の眞實相に常に親言する

  • 口安楽行☞非難を口にするな、難問を受けたときは大乗の善法をもって之に答える
  • 意安楽行☞嫉み・諂い・誑く心無く佛に対し如く菩薩に対し恩師の想いを生ぜよ
  • 誓願安楽行☞總ての人を悉く皆救い助けんと誓願を立てよ
    • 以上智と學を主とした迹門分である

【本門分大意】

日蓮上人☞法華経ニ亦二經有、所謂迹門ト本門ト也 本迹ノ相違ハ水火天地ノ違目也

本門とは根本の法門の意にて生死の煩悩世界から寂静の極楽世界へ通ずべき唯一の通路ということ 娑婆世界廣と雖も生死の苦界を免れ出でんとすれば、佛教中法華経の一門より全く有る事無し 故に此の法華経を根本法門と名付け略して本門という

其の本を時間的に言えば久遠本時、空間的には本地の娑婆、人に約すれば本師釈迦尊、法についていえば本法妙經である 而して其の眞體は本佛妙法蓮華經尊である

此の妙法蓮華經尊が壽量品で教主釈迦牟尼佛に即して顕現 依って其の釈尊を本佛釈迦如来と申す 故に、本佛顕現して説き給うた本門の八品-自従地誦出品至屬累品-とそれ以外とは全く天地の相違生ずるのである

日蓮上人☞一切經ノ中ニ此壽量品マシマサバ天ニ日月ナク國ニ大王ナク山海ニ玉ナク人ニ魂魄無キガ如  されば法華經は生命は壽量品に依りて存する

【従地誦出品十五】

本門分の序・本・通の三論段

 ★序論☞従地誦出品始めより中段「當に精進して一心なる可 我此の事を説かんと欲す 乃至是の如きを今當に説く可 汝等一心に聴け」迄の五字偈四行

娑婆三千大千世界の地震裂し其の中より無数の大菩薩出現 中に上行菩薩・無邊行菩薩・安立行菩薩・安立行菩薩という四人の上首あり

 ★本論☞従地誦出品中段五字偈四行の後「爾時世尊是の偈を説き已りて彌勒菩薩に告給ふより、壽量品十六、分別功徳品十七の授記終了迄が本論

 ★通論☞分別品授記終了よりは後来の事に及ぶは末代の弘通である此れより嘱累品二十二(?)迄が通論となるか

【如来壽量品十六】

迹門分の中堅方便品は三止三請、本門の一大事本品壽量品は三誡三の上に重請重誡を加えられはじめて説かれる。

彼の彌陀の無量壽は實は無量壽ではない有量である。然し凡夫人の神心力及ばぬ程の過去を有して居るに依って之を無量壽と云うた。今佛釋尊は否らず、實に無始の古佛常住不滅の壽命を有して居る。彼は観經に於いて十劫正覺を説き、是は五百千萬億那由陀阿僧祇と明かす。彼の三部經に常住不滅の文義無く此經に文義朗然とある即ち、彼は有始有終の權佛、常住の粧ひを為せる無上の水月に過ぎず、此れは無始無終の實佛、常住不滅の天月である。

此の常住不滅は獨り釋尊の常住不滅ではなく霊魂の不滅とみることが出来る。

釋尊ト我等、苦樂明暗の差は有るが靈魂其ノ者の断然することなきは等しい。此れを以て當品を靈魂不滅論と見做すことが出来る。

【分別功徳品十七】

本論佛壽長遠を聞き大衆は眞理を直観するに至る。その巨益を佛は彌勒に十二部に分かち説く

本論部)迹門の授記は理論上之を許し本門は事実上之を證するという差がある。

通論部)四信五品☞佛の壽命長遠なるを聞いて親授する者の功徳

現在の四信:①一念信解 ②略解言趣 ③廣為他説 ④深信觀成

  • 布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行をする者よりも百千萬億倍以上の功徳がある
  • 若し進んで其の義趣を解せる者は如来の智慧を起こせる人
  • 廣く人の為に其の義を説く者は一切種智を生じる
  • 深心に信解する者は當に佛を見奉り娑婆世界の即寂光浄土なるを感知す

滅後の五品:①初随喜品 ②讀誦品 ③説法品 ④兼行六度品 ⑤正行六度品

  • 如来ノ滅後此ノ經ヲ聞キ毀訾セズシテ随喜ノ心ヲ起サン
  • 何ニ況ヤ之ヲ讀誦受持セン者
  • 若シ自ラ書キ若シハ人ヲシテ書カシム
  • 能ク是ノ經ヲ持チ兼ネテ布施等ヲ行ゼバ云々
  • 若シ人是ノ經ヲ讀誦シ受持シ他人ノ為ニ説キ云々

六度とは一般に六波羅蜜というので知られる:波羅蜜とは「到彼岸」の意 菩薩が生死の此岸より寂静の彼岸に到達せんとする方法

【随喜功徳品十八】

迹門分通論法師品に於いて五種法師を説き末代弘通の方法を示した 本門分、分別功徳品にて法華信仰の功徳を四信五品の階梯を仮りて説かれた。今更に一歩進めて詳細を説明せんとする☞一念信解の随喜の功徳を述べる

法華随喜の一行は根本的修行であり布施等の修業は枝末の細行であるを説く

【法師功徳品十九】

法華受持の功徳の詳説を随喜功徳品より始め當品に至る☞五種法師の名の下に功徳を説く

此の法華經を受持読誦解説書冩するものは眼耳鼻舌身意、皆清浄となるを詳しく説く

【常不經菩薩品二十】

前段にて法華受持の功徳を詳説六根清浄の果報を得ることを述べた。茲に其の先證を挙げ眞實なるを信じせしめる為に釋迦佛の過去譚を披露する

總て宗教の事は哲学と異なり、畢竟實際上に具体化するを以て目的をする者であるから事實ということに尤も重きを置くものである。

日蓮上人曰く:如何ニ人申ストモ即身成佛ノ人無クバ用ユベカラズ乃至大日經金剛頂經等ノ眞言經ニハ其人ナシ

如何に巧妙なる議論でも宗教に於いては先ず其の先證を示し後、其の經の力用を信ぜしむるが本當である 即ち、迹門分の觀持品二十行偈の法難の事実談及び本門分常不經菩薩品の釋尊経歴談にて法師功徳品の六根清浄の實果を示した

常不經とは釋迦牟尼、其時謗りしものは大會中の跋陀婆羅等のこと

【如來神力品二十一】

法華經末代弘通の任命☞如来十種の神力を顕す その後、従地誦出の上行菩薩に任を下す

  • 釋迦佛の廣き長き御舌が高く中天に懸かる
  • 一切の毛孔より無数の色光を放つ 
  • 一時に咳ばらいをされ
  • 指を鳴らされる
  • 此の二音聲徧く十方世界へ響き地皆六種に振動する
  • 十方の衆生皆佛の神力を以てこの有様を拝す
  • この時諸々の天人が虚空より高聲に釋迦牟尼佛が娑婆世界にて法華経を説く事を告ぐ
  • 人々は皆娑婆世界の向かって南無釋迦牟尼佛と唱える
  • 而して種々の珍寶を娑婆世界に捧げそれが聚まって寶の帳となる
  • 十方世界は一大佛國土と化し通達するに何の妨げも無いようになった

【嘱累品二十二】

嘱は授の義、累は受の義☞汝末代に於いて此の法を弘めよというが嘱、仰せに従い必ず布教致しますとお受けするのが累

神力品に於ける付属は上行菩薩に対し妙法蓮華經の屬累:塔中別付といわれる

屬累品に於いての付属は他の經々の總體の付属となる:總付属といわれる

  • 法華経の弘まる以前に他の經々は先駆を承り或いは其輔弼として任を果たす故に其の任命を總體に授けるので總付属といわれる

ここ迄が本門分通論可(❓)

【藥王菩薩本事品二十三】

此れより、所謂捃捨付属(クンジュフゾク)☞本門八品の大収終わりたりと雖も茲に個々物々の間に法華の功徳を賛じ其の妙用を示し末代修行に資する

藥王菩薩の過去談:本事とは菩薩の過去談の意、佛の過去談を本生というに対す

本文中の阿弥陀如来とは観無量壽經の彌十劫正覺の陀とは異なり、今は、五百塵點劫の久遠實成の釋迦如來の分身佛を指す

【妙音菩薩品二十四】 

此の品の主要成るは、如何に姿は卑しくとも佛菩薩を軽しめてはならぬ此の菩薩は三十四身に身を現ずる況や他の佛菩薩をやということ。さらに一歩進めて、末代法華弘通のものは如何程下劣なるも決して賤しんではならぬ。此れ即ち佛菩薩の變化の人であるから

【観世音菩薩普門品二十五】

妙音は三十四身東方の大士、観世音は三十三身西方彌陀の脇士。俱に他方來の菩薩。先に受けたる余深法中、示教利喜の妙文を東西相対して茲に其奉行をせんとするのである。

此の2菩薩共に妙法蓮華經の五字を頭に冠せるを以て知ることが出来るが、換言すれば妙法蓮華經の弘通の養護者たるを誓約するの一段と見ることができる。

観世音菩薩(法華經)=観自在菩薩(般若心経)

普門☞普門示現の意:如何なる所にても其身を顕し法を守り行者を救うという心の意

【陀羅尼品二十六】

陀羅尼とは總持と譯する語にて総べての義が漏らさず含まれているいう意味

印度語支那語に譯するに当たり到底多含多義の語を冩す適当の語無きを以て、また、秘密の義有、翻訳すればその効力を失するものと信ぜられ言語の音をそのまま寫したもの

神の約束語又は戦場に於いての合言葉のようなものともいわれ、」此の語を唱える者は諸仏諸神の守護を受けることが出来ると称されている。即ち呪言ともいわれる

日蓮宗に於いては五番の善神と呼ばれ尤も祈祷に大切な神と言われれている。就中、最後に顕れる鬼子母神及び其子と十羅刹女は法華の行者援護の総大将といわれている。

【妙荘厳王本事品二十七】 

前品は咒を以て法を守護する旨を明かし、今品では身を以て直接人間を守護する一例を示す。是は此れ妙音観音の三十三・四身の一班を顕すものと見ることが出来る。即ち即現婦女身、即現童男童女身の利益にて、悪王の為に后妃および王子と變現し佛教信者と為す一個の家庭訓ともいえる。

【普賢菩薩觀發品二十八】

觀發とは戀法の辞とあり法を戀い慕うて發起せしむるの意 

此の段は所謂再演法華なる一段

寶威徳上王佛の許より娑婆世界釋迦佛の説く法華經を聴聞せんと飛來した普賢菩薩の乞いに答え、法華經を滅後に於いて得るの4つの道を説いた

❶ 諸佛ニ護念セラル

❷ 諸々ノ徳本ヲ植エル

❸ 正定聚ニ入ル

❹ 一切衆生ヲ救ウ心ヲ發ス

此の四法は法華一部の廣説を約言したものである

普賢菩薩は法華弘通の行者を守護せんと守護陀羅尼を説く されば、末代法華經の義趣を得たるものあればそれは普賢菩薩の力に依ったといえる。この人は命終の時千佛來たりて手を授け悪道に至らしめぬ故に、必ず守護し此の法の弘布を断たしむる事無し


  • 五種法師法華経の所説によって分けられた五種類の法師。受持法師、読経法師、
  • 誦経法師、解説法師、書写法師をいう。ごしゅほうし。〔梁塵秘抄

〔法華経文句‐八・上〕☞「法華経」法師品に説く、修行者の五つのあり方。   受持・読経・誦経・解説・書写

  • 跋陀婆羅:跋陀婆羅菩薩はインドの言葉ではバドラパーラと呼ばれます。中国に入
  • り漢字に音訳され跋陀婆羅菩薩となりました。この跋陀婆羅菩薩は『首
  • 楞厳経』(しゅりょうごんきょう)に記されている菩薩で、十六人の菩薩
  • が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩をはじめ菩薩達が忽然として自
  • 己と水が一如であることを悟ったことが記されています。その因縁から
  • 浴室の守り本尊として、お祀りするようになりました。
  • 十大弟子:経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、維摩経弟子品で
  • は出家順に]以下の通りである]
  1. 舎利弗(しゃりほつ)

パーリ語でサーリプッタ (Sāriputta、सारिपुत्त)。サンスクリット語でシャーリプトラ(Śāriputra)。舎利子とも書く。智慧第一。般若心経では仏の力を承けた観音菩薩の説法の相手として登場。また、阿弥陀経では仏の説法相手として登場するなど、多くの経典に登場する。

  • 摩訶目犍連(まかもっけんれん)

パーリ語でマハーモッガラーナ (Mahāmoggallāna、महामोग्गळान)。サンスクリット語でマハーマウドガリヤーヤナ (Mahāmaudgalyāyana)。 一般に目連(もくれん)と略称される。神通第一(じんずう・だいいち)。舎利弗とともに懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であったが、ともに仏弟子となった。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『盂蘭盆会』(うらぼんえ)の起源だとしている。

  • 摩訶迦葉(まかかしょう)

パーリ語でマハーカッサパ(Mahākassapa、महाकस्सप)、サンスクリット語でマハーカーシャパ(Mahākāśyapa)。大迦葉とも呼ばれる、頭陀(ずだ) 第一

釈迦の死後、その教団を統率し、第1結集では500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集する座長を務めた。禅宗は付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第2祖とする。

  • 須菩提(しゅぼだい)

パーリ語でもサンスクリット語でもスブーティ(Subhūti、सुभूति)。解空第一(げくう・だいいち)。金剛般若経等、を説く大乗経典にしばしば登場する[2]

  • 富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)

パーリ語でプンナ・マンターニープッタ(Puṇṇa Mantānīputta)、サンスクリット語でプールナ・マイトラーヤニープトラ(Pūrṇa Maitrāyanīputra、पूर्णमैत्रायनीपुत्र)。

略称として「富楼那」。他の弟子より説法が優れていた。説法第一

  • 摩訶迦旃延(まかかせんねん)

パーリ語でマハーカッチャーナ(Mahākaccāna、महाकच्चान)、サンスクリット語でマハーカートゥヤーヤナ(Mahākātyāyana)。論議第一。辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。

  • 阿那律(あなりつ)

パーリ語でアヌルッダ(Anuruddha)、サンスクリット語でアニルッダ(Aniruddha、अनिरुद्ध)。天眼第一(てんげん・だいいち)。釈迦の従弟。阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのためかえって真理を見る眼をえた。

  • 優波離(うぱり)

パーリ語でも、サンスクリット語でもウパーリ(Upāli、उपालि)。持律第一

もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。

  • 羅睺羅(らごら)

パーリ語でも、サンスクリット語でもラーフラ(Rāhula、राहुल)。羅雲とも書かれる。密行第一(みつぎょう・だいいち)。釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子(らご)と言う。

  1. 阿難陀(あなんだ)

パーリ語でも、サンスクリット語でもアーナンダ(Ānanda、आनन्द)。阿難とも書く。多聞第一(たもん・だいいち)。釈迦の従弟。nandaは歓喜(かんぎ)という意味がある。出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人をした。第一結集のときアーナンダの記憶に基づいて経が編纂された。120歳まで生きたという。無量寿経等に仏の説法相手として登場する。

中村天風のことば

中村天風一日一話

元気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 発行所 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【三月の言葉】

*二日 完全を願う意欲観念

人間には不完全を嫌い完全を喜ぶと云う気持ちがあるでしょう。壊れた時計と壊をれていないと時計と両方見せられて好きな方を持って行きなって言われたら、誰だって壊れていない時計を貰って行く筈です。だから自己の健康や運命も誰もが完全である事を願うんです。たまには患ってみたいとかニッチもさっちも行かない運命の中に陥って

*五日 自分の分を知る

自分の分を知らなきゃ卑しい希望や汚れた宿望を炎と燃やしても、ろくな仕事は出来ないし不渡りを食う結果が来るのだ。五貫目の力しかないのに十貫目のものを持ち上げるとどんな結果に成るか、と云う事を考える事だ。自己認証とと云う事は自分の分を知ると云う事これが本当の自己認証である。

*六日 吾在る処

古聖の教えにも吾在る処に常に光あらしめん・我往く処に又光明を点ぜんと云うのがあるが、誠と愛の心を持って万物の接する時、期せずして其れは光明となるのが必至である。是こそ真に最も近くして最も遠く最も新しくで最も古き乃ち久遠より永劫への昭(証)として一貫する不易の人生哲学と人生科学の真髄である。

*八日 刹那心機の転換

常に心掛けねばならない事は刹那心機の転換と云う事である。刹那心機の転換と云うのは言い換えれば如何なる事でも即座に心を積極的に切り替えることを言うので、禅の方では熱殺寒殺と云う言葉があるのも要するにこれと同義諦なのである。この言葉は即ち暑さに対しても寒さに対しても其れを思わぬ事、其れに心を懸り合わせぬ事さすれば寒暑何ものぞ否一切の人事世事皆是と相等しと云う、所謂心機転換の妙を説示した偈語なのである。

*十一日 真心を持った行為

人間の行為に真心の籠って為されるものとその否との場合はその結果の事実の如何に拘りなく、その行為の尊さと云うものに頗る格段の相違がある。例えば他人の危難を救うと云う様な場合報償を目当てにして人を救ったのと、断然報償等を念頭に置かずに救ったのとは、例え敢然として難を冒して救ったというその行為と事実とは同様であろうとも、その行為の尊さには全然大きな隔たりがある。

*十四日 真理は事情に同情しない

自分の仕事や又は為す事等が思い通り上手くいかないと、とてもがっかりしたりへこたれて憐れな程意気を消沈する人が有るが、何れにしても人生斯うした心構えでは幾ら学識が有ろうと金持ちであろうと更に社会的の地位を持っておろうと、真理と云うものは事情に同情しないのであるから只徒に不幸な状態に自分を心ならずも導入して、結局は往生の時を早めるだけのこと以外何も値打ちのある事は人生に招来されない。

*十六日 睡眠は精力復活の恵み

特に就寝前には心痛憤怒煩悶悲観と云う様な仮初にも心を暗くするが如き、消極的の思考は断然心に抱か〆ぬ様努めて習慣付けなければならない。要するに睡眠と云う自然の与えてくれた精力復活の恵まれた時に本当に親しむのには、落ち着いた楽々とのんびりした気分が最も肝要なのである。

*十八日 臨機応変

世の中を見てみるにその日々の生活を行う際「力」の使い方を考えない為、力を働かさずに力のみ入れると云う力の無駄遣いをしている傾向がある。県の極意は変機に処する以外には徒に力を入れぬ事である。此れが臨機応変の要訣である。人生生活を完成する命の力の使い方も亦これ以外にない

*二一日 大定心

大定心と云うのはどんな時どんな事にも些かも動揺せぬ心、言い換えると如何なる場合に怯じず怖れず急がず焦らず何時も淡々として極めて落ち着いている心である。此れをもっと適切な状態で云えば何事も無い時の心と同様の心の状態である。あの古い句で有名な「湯上りの気持ちを欲しや常日頃」というのが此の心持を最も真実に形容表現している。要するに何事も無い時の平静の心こそ大定之心也と云う事である。

*二四日 心や肉体が自己ではない

心や肉体が人間=自己に対してどんな関係にあるかについて説明しよう。心や肉体は人間そのもののように見えるが実はそうではなく、人間がこの世に活きるのに必要な色々な方便を行うための道具と云う関係である。哲学的に言えば心や肉体は人間の個体生命の生存と生活を確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なのである。故に心や肉体は人=自己ではなく益してそれが人=自己の本体ではないのである。

*二七日 思考の客観的批判

兎に角お互いに真理に則って正しい向上への人生を建設し様と云う者は、自己の心の行う思考状態の客観的批判を刹那刹那実行する位の余裕を心にもたして活きるのが、本当に生活を味わい得る貴重な人生真理だと悟らなければならない。そしてその余裕を現実に心に創る事を常住の心掛けとすべきである。

*二九日 人間の死と云うもの

たった一つの宇宙の根本が産出したものが森羅万象である。従って一切の森羅万象と称するものは宇宙根本のエネルギーの分派によって創られている。形がつまり目の前にあると云うのは宇宙根本の力がまだ籠っているからである。その力が抜けてしまえば形を現象界から消して根源要素に還元しなければならない。人間死と云うのもそう云う事なのである。

*三一日 つまらない考え方

心の弱い卑怯な人に為ると何か自分には運命が向いていないだとか、世間がまだ本当に認めてくれないだとか、最呆れた奴に為ると整備が整っていないだとか誰々が手伝ってくれないとか、何か上手くいかない時に自分以外のものの所為にする人がいますがとんでもない了見違いですよ。やれ運命が詰まらないの人生が詰まらないのって人はその考え方が詰まらないんです。いいですか幸福も健康も成功も他にあるんじゃないんですぜ。貴方方自身の中にあるんだぜ。