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中村天風のことば

中村天風一日一話

元気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 発行所 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。すこしでも実践できればいいですね~。

【十月の言葉】

*一日 本当の幸福

本当の幸福と言うのは人生が拠り能く生きられる状態に自分でする事なんです。自分でしないで他からしてくれる事を待ってる限り来やしないよ。自分の現在の生活に自分の心が先ず満足しなきゃいけないだよ。其れが生命を高くし程度を上にした考え方なんだ。詰り自分の生甲斐を感じる状態を最気高い処に於かなきゃいけないんだよ。旨いものでも食っていい着物でも着て・・斯う思う処に本当の生甲斐は無いんだけれどもねえ。

*二日 他人の憂鬱に影響されるな

おかしな奴が世の中に居るもので中には他人が憂鬱に成ったり悲観したり心配していると、同情の垣根を飛び越しちゃって相手を余計心配させたり悲観させたりしている奴がある。そして最飛び抜けた慌て者になると、人の言葉や行動迄自分の心を影響させちまって不愉快になったり不機嫌になったりし合う人が有る。其れが人生をドンドン値打ちの無いものにしてしまう原因だと云う事に気づかない。是は実に滑稽千万だよ。

*五日 真善美

如何なる人事世事に応接する際にも先ず必ず心の積極的態度を崩してはならない事と同時に、平素心して眞我の尊厳さを乱さぬ為に自己の思考内容【得に人生に対する】を信念的に高潔に把持する事に専念せねばならない。而してその要諦は唯偏へに常に真(誠)善(愛)美(和)を本意とする思考を持って、自己の精神生命の現実の姿とする事に努める事である。

*九日 人あっての自分

若しも些かたりとも報償を本意とすると云うが如き凡俗同様の卑しむべき心持が発生したならその時は、箱根山駕籠に乗る人担ぐ人其の復草鞋を作る人と云う古諺を思い出すが良い。さすればこの世の中に活きるのは、如何に偉くなっても自分一人で生きられるべき物でなく人有っての自分自分在っての人と云う事が即座に直感され、その直感が良心に感応すれば報償を超越した責務感となり更に当然の帰結でその責務感が真心となって発露する。

*十二日 記憶力を善くする法

有意注意力が習性化されてくると自然と注意が注がれる範囲が拡大されていって、一度に多数又は多方面に自分の注意を困難なく振り分けられるようになってくる。不必要な消極的観念が心の中を占拠して、有意注意力を攪乱する事が無くなってくる。その当然の帰結として連想力が正確に成り、所謂思想の整理が自然に巧妙に為される様になると同時に記憶力が頗る良くなるんです。何故なら心の前に於かれた事物の一切をその心に深刻に印象付けて、細大漏らさず心の記憶の倉庫内に入れちまうからだ。

*十五日 只漠然と生きていないか

現代子の文化の時代に活きている人々が生命は貴重だと云う事は考えているけれども、復人生は大事だと云う事は考えているけれども只其れは考えていると云うだけで、この貴重な生命や大事な人生をどう云う風に一体全体コントロールし如何云う風に我慢する事に因ってこの目的が達せられるかと云う大事な事が考えられていない。だから漫然と唯その日その日の出来心で人生を生きている人が多いんであります。

*十六日 悪魔の悪戯

心本来の姿は八面玲瓏磨ける鏡の如き清いものだ。その清い心に色々汚いものを思わせたり考えさせるのは其れは心本来が思っているんじゃない。悪魔が心の蔭で悪戯してるんだ。其れに気付いてその思い方考え方を打ち切りさえすれば、もう悪魔は其の儘姿をひそめる訳だ。怒らず恐れず悲しまずこそ正真正銘の心の世界なんだ。静かに自分自身考えなさい。何かで怒ってやしないか何か恐れていやしないか夫れとも何事かで悲しんでいやしないか。

*十八日 人生は死ぬまで闘病

人間は生まれた時から死ぬ迄絶え間なく病と闘っている。健康とはその戦いに打ち克っているときの状態である。自分がその生命に違和異常を感じると、其れを病と云っているが其れは生命が病的刺激と闘っている事を意識しただけの事である。意識しない前に既にこの戦いは開かれている。開かれていたのである。だから積極的な抵抗力を常に要請する必要があるのである。

*二三日 周章狼狽の愚

多く云う迄もなく人間と云うものは、如何なる場合にも其の人生に活きる際慌ててはいけないのである。と言うのは人生に生じる錯誤や過失と云うものはその原因が心が慌てた時に多いからである。慌てると云うのは亦の名を周章狼狽と云うが、之は心がその刹那放心状態に陥って行動と精神とが全然一致しない状態を言うのである。心がこうした状態に陥った時と云うものは、意識は概ね不完全意識になって要るのである。

*二五日 人間は本来幸福に活きられる

人間と云うものは老若男女の差別無くその生命の中に、健康も運命も自由に獲得し復開拓し得ると云う真に感謝に値する偉大な力が与えられている。人間はそう矢鱈と病や不運に悩まされたり虐げられねばならぬものでは無く、能くその一生を通じて健康は勿論運命も亦順調で、天命を終わる迄幸福に生き得られる様に本来的には作られているものなのである。

*二八日 調和は自ら進んで作る

何事を為すにも力と勇気と信念とを欠如してはいけないが、調和と云う事を無視せぬ様に心掛けないと往々軌道を外れる。此れを無視した言動は完全な成果を具顕し能わないからである。是は不完全の中に調和が絶対に在り得ないと言う宇宙真理があるが為で、調和を度外視した言動は現実構成の軌道から脱線可き必然性を生み出すか招来する。調和は相対事物の中に求めるべきで無く自ら進んで作為するべきものである。

*三十日 真我は不滅である

真我に内在する力はどんなものであるか。其れは絶対付可犯のものである。此れに対し肉体の有する力は相対的なものであり、火や水や大気などには適する事が出来ない。然し乍ら真我は全生命の本源的中枢で形象を有しない無形の一実在である。故に火にも水にも一切の何物にも決して犯されない絶対不可犯のものである。絶対的なものには絶対的の力があるのは当然の事である。

松尾芭蕉句集からⅢ

芭蕉句作の変遷

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回は3回目です。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。
  • 荘子哲学と禅の思想的影響

芭蕉に於ける荘子の影響は絶大であった。これからの芭蕉は世俗的な価値観の束縛をかなぐり捨て、一切の功利主義的なものと絶縁し隠者の境涯に徹し、一筋に純粋に、文学の真実を求める事だけに生涯を捧げる事に成るのである。

古典と古人の魂に直結し、更に是に現実体験の中から掴んだ実感・感受性が相乗されて精神価値への上昇志向が高まってくると、言葉や観念の知的遊戯、古典の詩句のもじり趣味等、最早無意味なものに帰するのも必然であろう。そんな中で芭蕉は時流に先んじて本歌本説取りからの脱皮を志し、まともな感受をストレートに表現する方法を探り始める。

芭蕉は延宝末年(1680)の人間的煩悶の中で己の弱さに悩み「学んで愚を悟らん」笈の小文)として佛頂禅師について参禅修学をして来た。芭蕉の文学のあるものに禅機が感じられるのは此処に由来するものであろう。

【哲学影響下の芭蕉句例】

  ばせを植ゑてまづ憎む荻の二葉哉 (141)   バセヲウエテ マヅニクムオギノ フタバカナ

 五月雨に鶴の足短くなれり    (143)   サミダレニ ツルノアシ ミジカクナレリ

 氷苦く偃鼠が喉をうるほせり   (150)   コオリニガク エンソガノドヲ ウルホセリ

  鶯を魂にねむるか嬌柳      (163)   ウグイスヲ タマニネムルカ タヲヤナギ

 霰聞くやこの身はもとの古柏   (170)   アラレキクヤ コノミハモトノ フルカシワ

 蝶よ蝶よ唐土の俳諧問はん    (173)   チョウヨチョウヨ モロコシノハイカイ トハン

実感の表出を妨げる寓言的非論理も次第に影を潜め知巧を洗い流した正常な文体の中で自己の感受を表出する道に到達する。

これ等の中には最早知巧の陰はない。沈静した文体の中に心が通っている。是がこの模索期の中で芭蕉の探り当てた新俳諧の最初の典型的な姿だった。

野ざらし紀行☞模索2:貞享期1684-1687(41歳~44歳)前半

貞享元年(1684)芭蕉ははじめての文学行脚に旅立つ。貞享元年8月~貞享2年4月

此の旅は延宝8年(1680)-37歳-以来深川の草庵にあって、人間的にも文学的にも真剣な思案を重ねた末に漸く目に見えて来た文学的新境地を、日々新たに繰り広げられる新鮮な経験の中で実践するに格好の場となった。

「千里に旅立ちて路粮を包まず。三更月下無何に入る、と言ひけん昔の人の杖にすがりて貞享甲子秋八月、江上の破屋を出づるほど、風の声そぞろ寒げなり」野ざらし紀行冒頭

☆ 千里に旅立ちて→荘子「逍遥遊篇」千里ニ適ユク者ハ三月糧を聚アツム

☆ 路粮ロカテを→中国禅僧詩集「江湖風月集」の詩句:路粮ヲツツマズ笑ヒテ復歌フ、三更月下無何ニ入ル 広聞和尚

☆ 無何→荘子「逍遥遊篇」無何有之郷:有無を超越し一切の執着を離れ切った人間精神の理想郷を表す

【芭蕉句例】本文190­~258蕃収録 後期1

  野ざらしを心に風のしむ身哉   (190)   ノザラシヲ ココロニカゼノ シムミカナ

猿を聞く人捨子に秋の風いかに  (194)   サルヲキク ヒトステゴノアキノ カゼイカニ

  道の辺の木槿は馬に喰はれけり  (195)   ミチノベノ モクゲハウマニ クハレケリ

晦日月なし千歳の杉を抱く嵐   (197)   ミソカツキナシ チトセノスギヲ ダクアラシ

手に取らば消えん涙熱き秋の霜  (201)   テニトラバ キエンナミダ アツキアキノシモ

  僧朝顔幾死に返る法の松     (203)   ソウアサガオ イクシニカヘル ノリノマツ  

砧打ちて我に聞かせよや坊が妻  (205)   キヌタウチテ ワレニキカセヨヤ ボウガツマ

秋風や藪も畠も不破の関     (210)   アキカゼヤ ヤブモハタケモ フワノセキ

  狂句木枯の身は竹斎に似たる哉  (223)   キョウクコガラシノ ミハチクサイニ ニタルカナ

  草枕犬も時雨るるか夜の声    (224)   クサマクラ イヌモシグルルカ ヨルノコエ

海暮れて鴨の声ほのかに白し   (227)   ウミクレテ カモノコエ ホノカニシロシ

  春なれや名も無き山の朝霞    (232)   ハルナレヤ ノモナキヤマノ アサガスミ

水取りや氷の僧の沓の音     (233)   ストリヤ コオリノソウノ クツノオト

世に匂へ梅花一枝のみそさざい  (235)   ヨニニホヘ バイカイッシノ ミソサザイ

山路来て何やらゆかし菫草    (239)   ヤマジキテ ナニヤラユカシ スミレグサ

いざともに穂麦喰はん草枕    (250)   イザトモニ ホムギクラハン クサマクラ

直門の許六が後年「道の辺」の句を持って「談林を見破り正風体を見届け」た最初の作として称揚している(歴代滑稽伝)

☆ 正風体とは宗因風の寓言的無心所着体と正反対の、和歌連歌的な温雅な文体を指す用語

野ざらしの旅中作のほとんどは既に正風体に帰している。

この様にして芭蕉は旅中の實作を通して寓言の宗因風とも晦渋な天和風ともほぼ完全決別し、正風体の中に新たな俳諧の方向性を見出すに至った。

貞享期(超俗唯美の句境)☞模索31684-1687(41歳~44歳)後半

野ざらしの旅を終へた後、貞享四年十月再び近畿の旅に赴くまでの約二年半、即ち貞享中期の芭蕉は、野ざらしの旅で得た句境に更に磨きをかけその芸術的深化を求めて思索と実践を繰り返す。

貞享三年(1686年)正月芭蕉江戸門下による百韻連句→「丙寅初懐紙」巻頭八句

日の春をさすがに鶴の歩み哉    其角    ヒノハルヲ サスガニツルノ アユミカナ

    砌に高き去年の桐の実     文鱗    ミギリノタカキ コゾノキリノミ

  雪村が柳見にゆく棹さして     枳風   セツソンガ ヤナギミニユク サオサシテ

    酒の幌に入相之月       コ斎    サケノトバリニ イリアイノツキ

  秋の山千束の弓の鳥売らん     芳重    アキノヤマ チソクノユミノ トリウラン

    炭竈こねて冬のこしらへ    杉風    スミガマコネテ フユノコシラヘ

  里々の麦ほのかなる群緑      仙化   サトサトノ ムギホノカナル ムラミドリ

    わが乗る駒に雨覆ひせよ    李下    ワガノルコマニ アマオホヒセヨ

茲では天和の生硬な漢詩文調や晦渋さは最早全く影を潜め、温雅な文体に託された、美的なるもの、超俗的な詩境へのひたすらな志向があるばかりである。そうした謂わば唯美主義的な風がこの頃の芭蕉と蕉門の芸境として定着していたのである。

ものを見る目の新しさ、自然や人生に内在する未開拓の新しい洞察と言った方向に焦点が集中されるに至っている。それは芭蕉俳諧が本格的な芸術の段階に入った事を明確に示すものである。→「新しみ

【芭蕉句例】本文259~319蕃収録 後期2

幾霜に心ばせをの松飾り      (261)   イクソモニ ココロバセヲノ マツカザリ

よく見れば薺花咲く垣根かな    (263)   ヨクミレバ ナズナハナサク カキネカナ

  古池や蛙飛びこむ水の音    (270)   フルイケヤ 蛙トビコム ミズノオト

鸛の巣に嵐の外の桜哉       (293)   コウノスニ アラシノホカノ サクラカナ

  花の雲鐘は上野か浅草か    (294)   ハナノクモ カネハウエノカ アサクサカ

      〈物皆自得〉

  花みな枯れてあはれをこぼす草の種 (276)  ハナミナカレテアハレヲコボス クサノタネ

花に遊ぶ虻な喰ひそ友雀      (291)   ハナニアソブ アブナクラヒソ トモスズメ

永き日も囀り足らぬひばり哉    (295)   ナガキヒモ サエズリタラヌ ヒバリカナ

原中やものにもつかず啼く雲雀   (296)  ハラナカヤ モノニモツカズ ナクヒバリ

ほととぎす鳴く鳴く飛ぶぞ忙はし  (298)   ホトトギス ナクナクトブゾ イソガハシ

起きあがる菊ほのかなり水のあと  (318)   オキアガル キクホノカナリ ミズノアト

痩せながらわりなき菊乃蕾哉    (319)   ヤセナガラ ワルナキキクノ ツボミカナ

  • 物皆自得とは荘子哲学の自然観を象徴する語で、万物は皆夫々の本然ノ天性に随い、その分に安んじて楽しんで生きているとの意。

その背景は天地の間に或る森羅万象の一切を宇宙の根源的な「道」―大自然の理法―の自ずからなる顕れと観、従って人間も美しい花も鳥も、醜い虫けらも路傍の雑草や石ころも、この「道」の前では一切が平等の価値を有し万物は其々に道即ち大自然の真理を内に宿しているとする荘子の哲学の最も根本的な哲理に支えられている。

つづき

💞支え合っているのかな (=^・^=)💖

144NPO法人あおぞら2023年8月7日 07:44

(Blognoteから転記)

老々介護

目次

  1. 老々介護
  2. ニュースでは
  3. 古賀市の取り組み
  4. 経費は掛かりますが・・
  5. 積極的な取り組みを

ニュースでは


毎日暑い日が続いて、ヒトも猫達も疲労困憊状態❣(=^・^=)❢

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そんな鬱陶しい日々の中、気の重くなるような問題の話が、先日TVのニュースで流れてました。これからもっと増えていくと考えられる「老々介護の問題」です。
老々介護と云ってもヒトとヒトの話ではなく、ヒトと動物のこと。
ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

ヒトも飼われている動物たちも、食事や環境が良くなったことで寿命が延びそのことによって逆に問題が発生しているらしいですね。
独り暮らしのご高齢者の方が、動けなくなった犬猫の面倒を看ている状況が増えてきているようです。最後まで看取ってあげられればいいのですが、ご本人に介護が必要な状態となり、犬猫の面倒を看れなくなってる事例も増えて来ているよう。

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古賀市の取り組み

深刻な問題ですよね。ニュースでは福岡県の古賀市の例を取り上げていました。
古賀市は、福岡県の中でも、動物愛護の問題に関して、民間も行政も、意識の高い、活動の進んでいる地域だと思つています。
此の老々介護の問題に関しましても、市役所福祉課に相談窓口が常設されていて、いつでもご相談下さいとのコメントが流れていました。
必要であれば、介護の必要な動物を預かってくれる協力団体をご紹介するというシステムが出来ているようです。

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経費は掛かりますが・・

でも、当然のことですが、其れにはやはりそれ相当の金額ー経費ーが発生するのは致し方ありませんね。
ですから、お金を出して頼める方はいいのですが、其れが出来ない方々の飼っている子たちはどうなるのかと云う事ですね。

積極的な取り組みを

出来れば、各地の愛護センターが、大々的にそのような子達の一時預かりが出来る様な施設を作って頂ければありがたいですね。
勿論、施設運営には一般からの寄付や、行政としての故郷納税等々を活用するという手もあると思います。

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Hawaiiの愛護センター

待ったなしの状態になってきている北九州市も、棄て犬、捨て猫等々を増やさないためにも、そろそろ真剣に方法を模索していただければありがたいですね。
罰則強化だけでは現状は変えられないのではないでしょうか・・・

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中村天風のことば

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。     天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。


※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

九月の言葉

二日 神仏と云うもの

私は神仏と云うものの存在を第二義的に人生を考えるものには必要かもしれないが、自分自身を真理に沿って正しく生かすものに対しては何ら顧みる必要のない存在だという大きな確信の基に生きております。私も先祖は敬いますよ。けれど私は科学文化の先端に常に自分の人生に対する理解を求めている者です。従って私の眼には見えもしない抽象的な何だか訳の判らない神何てものや仏と云うものを当てに生きておりません。

*三日 不運だと思えば不運に成る

貴方方の心の中の考え方や思い方が貴方達を現在在るが如き貴方方にしているのであります。だから俺は体が弱いと思ってりゃ体が弱い。俺は長生きできないと思ったら長生き出来ない。俺は一生不運だと思えば不運だ。自分の念願や宿願優しく云えば思う事や考える事が適う叶わないと云う事は其れが外にあるんじゃないよ。貴方達の命に与えられている心の思い様考え方と云うものの中に在るんだよ。

*九日 理性の限界

現代の人々は理性に事物を判断する力があると云う点を極端に尊重し過ぎる傾きがある。然し理性と云うものは心性意識の発達に伴って発達する理智から発生するものであるから、理性其の物にも昨日と今日との間に相当な進歩をすると云う実際的変化がある。従って我々が理性を無上のものとして尊重し過ぎる事は決して賢う事ではない。況して人生の万事を理性に全部依存せ〆ると云う態度は甚だしい誤りである。

*十一日 本当の欲望は楽しい

叶わない欲望を心に描くと苦しんだ。真理の上から論断すると悩んだり苦しんだりする欲望は欲望とは言えないと思う。本当の欲望と云うのは楽しい欲望の事なんだ。欲しがりゃ欲しがる程楽しいのが本当の欲望。だから須らく楽しめる欲望を炎と燃やしなさいと云いたいんであります。そうするとその欲望を燃やしゃ燃やす程何とも言えない人生が豊かなものに為るんだよ。此れが天風哲学の主張する燃やしなさい燃やしなさいと云う欲望なんだ。

*十三日 笑いは養生である

人間は神経の集積であるので神経系統を濫りに消極的に興奮させる事が、直接間接に生命に危険を与える事となるのは当然である。人間の個体の生命擁護の為に全神経系統の興奮を鎮める一手段として笑いを生体に仕組んである。事ある時も事なき時も終始笑顔で応接しよう。否事ある時一層笑顔を崩さぬ様に練習すべきである。特に体の弱い人は一入笑いに努力する事を養生の第一とする可である。

*十四日 他人の批判より自己省察

諺に人の振り見て我が振り直せと云うのが有るが、他人の言葉や行為を矢鱈批判する人と云う者は、人の振りに我が振りを正しく照合して是正仕様とは仕無いので、只悪し様に其れを批判するだけなのであるから、従ってその批判から少しの価値あるものも我心に感得しない。妄りに他人を批判する事を本位として些かも自己省察を施さないが爲、人生に何よりも大切な自己自身の統御と云う事に少し進歩も向上も顕現しないのである。

*十八日 我慢して食べる事は無い 

病弱者は出来得る限り嫌いなものは食せず、嗜好するものを食す様にするのが好いのである。是は一寸考えると頗る我儘な様であるが、多く云うまでも無く食物と云うものは肉体を修補形成する要素である。然るに唯滋養と言う名目に已捉われて無茶苦茶に嫌いなものでも我慢して食すと云う事は、何の事は無い身体自然の要求に無謀な圧迫と活力の減損だけを招致する事となり、それが些かも血となり肉とならない。

*二二日 囚われない心

神経系統の生活機能は心が積極的でないと完全には働かないんだよ。詰り心の態度が積極的ならば神経系統も積極的に成るが、心の態度が消極的ならば神経系統の生活機能も消極的に成っちゃう。非常に心が落ち着いて何の捉われも無い時には可成難しい事でも平気で遣っていけますよ。処が心に落ち着きがないと易しい事でも難しくなっちまうんだ。

*二三日 生命力の使用量

人々がその人生に活きる為に使っている力は実際の生命力の全体から言うと何%下に過ぎない。大抵の人は自分の生命の力の全部を使って活きているかの様に思っている。そして自分は是だけ努力しているのにも拘らず一向に好い運命も来ず健康も完全に成らない。健康や運命は人間の力では如何する事も出来ないものだと決めてしまい、人間の力を低く弱く評価することに為るのである。

*二九日 不要残留心

喩伽(ヨーガ)哲学の教義の中にも斯う云うのがある。人の心の中には檻の中に入れられた猛獣がいる。そしてその檻の手入れを怠ると屡その猛獣が檻を抜け出して来て心の花園を荒らし回ると。この言葉は要するに本能心意の中に人間を苦しめる様な然も断然人生に活きるのに必要としない心意が存在しているから、その真意の妄りさに発動せぬ様常に注意深くそれを自分から監督せざるべからずと云う事を戒めたものと云える。

*三十日 人生の根本理想の四条件

人生の根本理想は是を帰納的に言えば長さと強さと広さと深さ等四つの条件が現実に充たされている姿である。万一この四つの条件が一つでも欠けていたならば人生は凡そ無意義なものとなり追われる。

松尾芭蕉句集からⅡ

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋1982年(S57)6/10初版

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回はその2回目です。

文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。

宗因風(談林)-  西山宗因(肥後生大阪の連歌師匠)

※ 延宝(1672~80)元年前後から約10年間

寛文十三年(1672)春 29歳 芭蕉江戸へ居住を移す

貞門風俳諧のマンネリ化に変わるものとして西山宗因が提唱(芭蕉江戸移住の頃)宗因は貞徳の様に連歌に近づける事で俳諧の地位向上を図ろうなどとは考えず、寧ろ俳諧は俳諧なりに本来の通俗と滑稽に徹すべきものだとした。

その手本として室町期の「守武千句」に求めた。

守武千句の特徴は、非論理・反常識の意外性から醸し出される強烈な滑稽味にある

 瘡の治るは平家なりけり     カサノナオルハヘイケナリケリ

 幼いに大原御幸や飲ますらん   オサナイニオオハラゴコウヤノマスラン

貞門風の微弱な滑稽に取って代わるものとして既に寛文年中から人気を集め寛文末には熱烈な支持を受けていた。

芭蕉が江戸へ移った翌年寛文十三年(九月延宝改元)、大阪の井原西鶴がこの風を推進、延宝の末ごろまで全盛期を展開する。

芭蕉も亦、この新情勢に棹さした。

  • 宗因風の特徴:寓言ともじり

「抑々俳諧の道、虚を先として実を後とす」「俳諧は寓言ならし。荘周が文章に習ひ守武が余風を仰がざらんや」(宗因)

寓言→大言壮語 

もじり→本歌本説の文句を逐語的にもじるもの&その主旨、趣向をもじるもの

井原西鶴「富士の煙に茶釜を仕掛け、湖を手盥に見立て、目の覚めたる作意」

宗因例句

  1. 車胤が窓今この席に飛ばされたり 宗因 シャインガマド イマコノセキニ トバサレタリ
  2. 鹿を追ふ猟師か今朝の八重霞   舟中 シカヲオフ ショウシカケサノ ヤヘガスミ

{宗因風芭蕉句例}(本文54~135番収録)中期1

天秤や京江戸かけて千代の春   (58)    テンビンヤ キョウエドカケテ チヨノハル

猫の妻竈の崩れより通ひけり   (71)    ネコノツマ ヘツヒノクズレ ヨリカヨヒケリ

秋来にけり耳を訪ねて枕の風   (79)    アキキニケリ ミミヲタズネテ マクラノカゼ

甲比丹もつくばはせけり君が春  (92)    カピタンモ ツクバハセケリ キミガカゼ

二日酔ひものかは花のあるあひだ (130)    フツカヨヒ モノカハハナノ アルアヒダ

転換期:天和元年―天和三年☞模索1(1681-1683)頃 38歳―40歳

延宝期(1673~1680)の俳壇を風靡した宗因風もすでに大きなマンネリズムの壁に突き当たっていた。その本質的原因は、言葉の機知の新しさを命の綱と頼む言語遊戯俳諧が、二百年に及ぶ歴史の中で、手を替え品を変えて繰り返されてきた結果、もはや打つべき新しい手を見出せなくなったところにある。

その結果新流行となったのが極端な破調句、漢詩文調、倒語趣味、晦渋さを衒テラう謎句等々の風潮である。

転換期例句

 花を被づく時や枯れたる柴嬶の歩みも若木に返る大原女の姿

  ハナヲカヅクトクヤ カレタルシバカカノアユミモ ワカギニカエルオオハラメノスガタ

 稲磨歌 妹乎鶏塒乃羽々幾 明奴良牟加毛

  イネスリウタ イモガトキノハバタタキ  アケヌラムカモ

所詮は宗因風と同じ言語遊戯の舞台の上で惟多少の衣装を替えて躍っていたに等しく取っつきやすい末梢的な形式面に新奇を求めていたに過ぎず、其処には何の理念もなかった。

【転換期芭蕉句例】(本文112~189蕃収録)中期2

この期の芭蕉の作品で注目しなければならないのは、同じ時流の中に在りながらも其に他の俳人に見られない著しい特色が現れていること、具体的に言えば、自己の境涯を深く見詰める主情的な作が急に目立って多くなっていること。

柴の戸に茶を木の葉掻く嵐哉  (123)    シバノトニ チャヲコノハカク アラシカナ

櫓の声波ヲ打って腸氷ル夜や涙  (126)    ロノコエヲ マミウッテハラワタコオル ヨヤナミダ

  雪の朝独リ干鮭を噛み得タリ    (127)     ユキノアサ ヒトリカラザケヲ カミエタリ

  石枯れて水しぼめるや冬もなし (128)    イシカレテ ミズシボメルヤ フユモナシ

 餅を夢に折り結ぶ歯朶の草枕  (136)    モチヲユメニ オリムスブシダノ クサマクラ

  五月雨に鶴の足短くなれり   (143)    サミダレニ ツルノアシ ミジカクナレリ

愚に暗く茨を掴む蛍かな    (144)    グニクラク イバラヲツカム ホタルカナ 

夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて(146)    ユウガオノ シロクヨルノコウカニ シソクトリテ

侘びてすめ月侘斎が奈良茶歌  (147)    ワビテスメ ツキワビサイガ ナラチャウタ

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 (148)    バセウノワキシテ タライニアメヲ キクヨカナ

氷苦く偃鼠が喉をうるほせり  (150)    コオリニガク エンソガノドヲ ウルホセリ

  暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉  (151)    クレクレテ モチヲコダマノ ワビネカナ

  髭風ヲ吹いて暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ (159)     ヒゲカゼヲ フイテボシュウタンズルハ タガコゾ

花にうき世我が酒白く飯黒し  (164)    ハナニウキヨ ワガサケシロク メシクロシ

重要な事は是が作風の新しさを狙うという様な、単なる観念先行の作意から生まれたのもではなく、実生活の現実体験に触発されて起こった、巧まざる実感の声だったと言う事である。観念や言語概念の弄びとは異質の生きる人間的実感の目覚め。これぞ正しく「誠の俳諧」の原点、芭蕉文学の将来を卜する重要な分岐点に他ならなかった。

つづく

松尾芭蕉句集からⅠ

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋1982年(S57)6/10初版

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付しています。

はじめにー総括】 

芭蕉俳句詠吟期間☞寛文二年(1662)19歳―元禄七年(1694)51歳 約30年間

門人服部土芳著「三冊子」

「それ、俳諧といふことはじまりて、代々利口のみに戯れ先達つひに誠を知らず。中頃難波の梅翁(西山宗因)自由をふるひて世上に広と雖も、中分(中程度)以下に して、未だ詞をもってかしこき名なり。然るに亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧初めて実を得たり。師の俳諧は名は昔の名にて、昔の俳諧に非ず。誠の俳 諧なり。・・・ わが師は誠無きもの(俳諧)に誠を備へ、永く世の先達となる。眞に代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得る事、天、當にこの人の腸(ハラワタ)を待てるや。師は如何なる人ぞ」

芭蕉俳諧を歴史的に端的に位置づけたものとして蓋し古今の名言。

  • 利口→弁舌巧みに、おどけしゃれを云う:室町期より俳諧は連句の余興として滑稽文学と認識されていた。
  • 俳諧の誠→風雅の誠:自然や人生の実相に深く迫ろうとする純粋至高の詩精神

【詠吟三十余年】宗房―桃青-芭蕉

寛文二年(1662)19歳 生地伊賀上野にて 

春や来し年や行きけん小晦日(1-12月29日立春―初句) 

 元禄七年(1694)51歳  

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(922-十月四日病中吟)

清滝や波に散り込む青松葉  (875―十月九日死の三日前)

俳諧が江戸期を迎えて一大発展期に入ってからも何の疑いも無く踏襲される。具体的に言えば寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀にわたって全国の俳調を支配した貞門風、延宝(1672~80)元年前後から約10年の全盛期を誇った宗因風所謂談林もその風潮には多少の曲折はあるものの、基本的には室町俳諧の延長という点で一貫した体質を持っていた。

【芭蕉句吟の流れ】

芭蕉も亦、はじめは此の大きな潮流に揉まれざるを得なかったのである。というよりも若き日の芭蕉は寧ろこの滑稽專一の文学に異常な情熱を燃やしこの道を選んだ。郷里の(伊賀上野)少年時代、寛文元年(1661・芭蕉18歳)前後から当時流行の貞門風を学び、情熱の赴く処、寛文12年(1673)29歳で俳諧宗匠を志して江戸に出てから延宝(1673-1680)の末迄は、貞門に変わって新たな流行勢力となった宗因風に心酔しつつ宗匠の地位を確立し、一派を築く等自ら積極的に滑稽の時流に掉差した。その間ほぼ20年、土芳も云う通り芭蕉の俳諧人生は三十余年に及ぶが其三分の二を占める年月を、芭蕉も亦「利口」の俳諧に費やしていたわけで、図式的に言えば「誠の俳諧」の創造に費やした時間は最後の十年間に過ぎなかったという事にもなる。

【芭蕉俳諧の精神的支柱】哲学・思想

中国古典「荘子」は宗因風の理論的裏付けとされた「寓言」を通して当時一般の俳人に広く親しまれ、和漢の古典の詩歌文章は本歌本説取りの材料として、これまた俳人必須の教養とされていたから、芭蕉だけが特殊な本を読んだと言う訳ではない。只、大多数の人々にとっては其れが本歌本説取りの為の単なる知識の対象でしかなかったのに対して、芭蕉がひとりその奥に流れる思想・精神の根源に魂の触手で直に触れることが出来た処に、天地霄壌ショウジョウの大きな違いがあった。そして、時代の平均的な享受の態度とは異質のこの対応の仕方にこそ、芭蕉の持って生まれた独特の個性の光があった。

→「百骸九竅ヒャクガイキュウキョウの中に物あり、仮に名付けて風羅坊といふ。眞に羅ウスモノの風に破れやすからんことをいふにやあらん」(笈の小文)―言うなればそれは肉体の底から己を衝き動かす、強烈にして而も鋭敏繊細な感受性であった。

  • 寓言→中国古代の哲学者荘周の著「荘子」の文章の特異さを示す言葉として古来より有

「荘子は寓言とて無き事をあるやうに書きたる道人」浮世物語―浅井了意

「荘子が寓言、俳諧の根本なり」宗因門 惟中の言葉

「富士の煙に茶釜を仕掛け、湖を手盥に見立て目の覚めたる作意」井原西鶴の言葉

【芭蕉俳諧完成への三段階

芭蕉が模索の数年を乗り越えて「誠の俳諧」に第一歩を踏み出すのは、貞享元年(1684)四十一歳の「野ざらし紀行」の旅からである。「誠の俳諧」としての純粋詩基本的性格はこの時定まった。然し其れは飽く迄第一歩に過ぎなかった。土芳は「(誠)を責むる者はその地(同じ場所)に足を据え難く、一歩自然に歩む理也」(三冊子)と言ったが是は取りも直さず芭蕉の精神に他ならなかった。「誠」は固定した形ではなく「責める」事によって無限に深化するという自覚―芭蕉はこの自覚の下に言葉の芸術としての俳諧の所在アラユル可能性を探ることに、残る十年間の人生のすべてを賭ける事に成る。

大局的観点から見れば、①超俗的な唯美主義へと飛翔する貞享期から、奥の細道の旅を経た後、唯美主義に纏わる弊を超克して現実なるものへの回帰を志す所謂「猿蓑」期に於ける初期「かるみ」への展開、更にこの風調を徹底深化させつつ世俗の卑近な庶民生活の哀歓の中に実人生の真理をを求め、是を日常の平淡な言葉の中に捉え尽くす事によって庶民詩としての俳諧を完成の域まで高めた、最晩年の「かるみ」の風へと、ほぼ三段階の発展を遂げる事に成る。

以下、俳諧の歴史的流れとそれに伴う芭蕉の句吟の変化を俯瞰

貞門風- 松永貞徳(京都)

※ 寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀

「俳諧は俳言をもって賦する連歌」☞俳言:優美を理想とする伝統和歌や連歌では用いられない俗語や漢語のこと。

室町滑稽手法の内、非論理的・反常識の意外による笑い或いは卑猥・不道徳的なものによる笑いを否定:「貞徳老人の俳諧はやさしさを体とし、をかしきを用とす」(玉くしげ)

貞門風作調手本例-「毛吹草-重頼著」政保二年(1645年)発刊

 1)皆人の昼寝の種や秋の月 (心の發句) ミナヒトノ ヒルネノタネヤ アキノツキ

 2)川岸の洞は蛍の瓦灯かな (見立て)  カワギシノ ホラハホタルノ ガトウカナ

 3)雨露は木々のいろはの師匠か(言ひ立て) アマツユハ キギノイロハノ シショウカナ

 4)恙なく咲くや卯木の穴かし(秀句)   ツツガナク サクヤウツギノ アナカシコ

 5)いろいろに変ずる花はつばけかな(五音相通) イロイロニ ヘンズルハナハ ツバケカナ

 6)実も入らで竹にすがるやがきささげ (清濁ミモイラヌ タケニスガルヤ ガキササゲ

 7)猫足の膳で食はばや鼠茸  (対物)ネコアシノ ゼンデクハバヤ ネズミタケ

 8)蚊食ふばかり寝がたく見ゆる夜中かな (本歌の俤) カクウバカリ ナガタクミユル ヨナカカナ

 9)折らずんば空し宝の山桜 (世話)   オラズンバ ムナシタカラノ ヤマザクラ

10) ほととぎはまだ巣籠りか声もな(なぞ)  ホトトギハ マダスゴモリカ コエモナシ

これ等は同作法書に、俳諧発句の望ましい姿として掲げられているもので、( )内の語は重頼によって分類された表現手法の名目である。

「毛吹草」はほかにも多くの名目を示すが、基本的には上記手法と大同小異で、貞門の言語遊戯は一般的傾向として凡そ以上のようなものだったとみてよい。中でも見立てと、縁語・掛詞の機知による滑稽が主流をなした。又俳諧が単なるばさらごと(戯れ事)でない証として古典の知識をふまえた作品が推奨され、此れが俳諧を嗜む人の教養を向上させ、伝統の浅い俳諧の文学的地位を権威あるものに高める基にもなった。

【貞門風芭蕉句例】(本文1~53番収録)初期

 岩躑躅染むる涙やほととぎ朱  (11)  イワツツジ ソムルナミダヤ ホトトギシュ

  あち東風や面々さばき柳髪   (26)  アチコチヤ メンメンサバキ ヤナギガミ

  うかれける人や初瀬の山桜   (31)  ウカレケル ヒトヤハツセノ ヤマザクラ

  文ならぬいろはもかきて火中哉 (47)  フミナラヌ イロハモカキテ カチュウカナ

  見る影やまだ片なりも宵月夜  (53)  ミルカゲヤ マダカタナリモ ヨイツキヨ

つづく

中村天風の言葉

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。     天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

八月の言葉

*一日 人間の心の大きさ

真剣に気づかねばならない事は人間の心の大きさである。月を見て佇めば心は見つめられている月よりも更に大きいと云う事を考えられはしないか。星を見て考えている心の中は大きなものを見て考えているんだからそれだけ星以上に大きなものではないか。星を見てその星よりも洪大な様子を心は想像できると云う簡単な事を考えただけでも、如何に人の心が一切を凌いで広大であるかと云う事が判ってくる筈だ。

*五日 消極的な十の心

消極的と云うのは凡そ十ある。第一が怒る事。第二が悲しむ事第三が恐れる事第四が憎む事第五が嫉妬を焼く事・羨む事だね。第六が恨む事第七が悩む事懊悩する事。第八が苦労する事九番目が煩悶する事其れから十番目が迷う事。この中のどれかしらが貴方方の心にある時。それは心が消極的な方面に働いている時なんです。

*六日 感覚器官を正確に使う

我々の人生の周囲に存在する全ての事柄は取り入れ方が善けりゃ我々の心の力を非常に優れたものにするけども、反対に同じものでも取り入れ損なうと抗議の方面へと働き出すんですよ。外界の印象を取捨分別する事は言葉を換えて言えば感覚器官を正確に使用する事なんだ。そうして初めて本当に優れた勘の力が出てくるんです。

*十日 自制自助

健康建設の要諦は(A)肉体内部の生活力の積極化(B)肉体の対外抵抗力の積極化と云う二つの条件を完全に解決する事である。又真健康の建設と確立とは是を結論的に言えば、曰く自制自助の二字に尽きるのである。則ち此の自制と自助とが一切を積極的に現実化する根本なので、第一この二つのものが欠如していたならどんな有効な方法も手段も決して目的を達するまで永続せず暫間的に終わって仕舞う恐れが多々ある。

*十二日 信念が無ければ結実しない

勿論人生を幸福にするのは富も経験も、理智も計画もその他必要なものが多々あるに違いない。然し其の何れも信念が無ければ理想通りに完全に結実しないのである。處が世の人々の多くは幸福の獲得に金の力知識の力又経験の力や計画の密度にのみ重点を置いて、信念を刺して重大視しないのである。要するに世の中の進歩に比例して本当の成功者も亦健全な生命を持つ者も、数に於いて本当に少ない原因的理由はこれ等の点にあると云ってよいと思う。

*十四日 言霊

言葉は云ってしまった時にその音響は無くなっちゃって居る様だが波動は残っている。その波動が残っていると云う事を考えてみたならば仮初にも我口から人の幸福を呪ったり人の喜びを損なうような言葉は、冗談にも云うべきではないと云う事が判りはしないか?兎に角お互いの気持ちに勇気を付ける言葉喜びを分かち合う言葉、聞いていても何となく嬉しい言葉をお互いに言い合おうじゃないか。言葉はねぇ言霊と云うのが本当なのよ。言葉は魂からでてくる叫びなんだから。

*十七日 心の区別

心と云うものにどんな区別が存在しているかと云うと、心には其の性状と活動の状態から大別すると次の二つのものがある。即ち肉体生命に属する心と精神生命に属する心である。肉体生命に属する心の方は更にこれを細分するとその内容に物質心植物心本能心と云う三つのものが存在する。一方精神生命に属する心には理性心霊性心と云う二つのものがその内容を成している。

*二十日 霊性心

霊性心は我々人類の精神の身に特有された極めて優秀性を有する最高級のものである。普通人には容易に発言し得ないと云われる且彼の霊感とか霊智とかいうような特殊なものは、何れも此の心から発露するものなので、所謂神秘的な偉大な思索や崇高な思想と云う様なものは一切この心を本源として形成されるものなのである。が遺憾乍らこの心の働きや力に対しては余りにも知らなさ過ぎる位無理解な人が多い。

*二二日 同情が礼儀ではない

病気を心配している者或は運命に泣いている者恋に悩んでいる者がいると、其処に云って理由の無い相槌を打つ事に拠って何か人間としてのお互いの交わりに対する義務の様なものを感じる人がいる。然し其れは全く毒汁を浴びせかけている事と同じなんですよ。本人の運命に対して本当の真心から目を醒まさせてやる努力をする人こそ尊い存在なんです。

*二六日 心身統一法で増す力

心身統一法に依ってその内容量を増やす力第一が体力であります。第二が胆力第三が判断力。第四番目が断行力第五番目が精力。第六番目が能力。此の六ツの力が生命の中にその内容量を豊富にしていない限りは、どんな事をしても完全健康と完全運命を自分の人生のものとすることは出来ないのであります。例え懐に一文も無くとも之だけの六つの力が自分の生命の中に内容量豊かに成れば人生は是佐乍ら天馬空であります。

*三十日 本心良心に悖らない言動

本心良心に悖った言葉や行いと云うものは、其れ自体既に消極的なんです。積極的じゃないんであります。と云うのは本心良心に悖ると疾しい観念の為に心の力は常に委縮して終う。本心良心の発動した場合に於ける言葉や行いと云うものは一点の疾しい事が無いから、どんな場合でも恐れる事はないという意味です。ですから一言ものを言う時でもちょいとした手足を動かす場合でも、本心良心に悖らない様にしなければなりません。

*三一日 現実は現実でしか解決しない

生きている事は現実なんだ。どんな人間でも現在自分自身を死んでいるとは思いやしないだろ。生きている息をしている血が通っているものを言ってる恋をする、何じゃ感じゃ皆現実なんだ。現実は何処まで行っても現実の力以外のものでは解決できないんだよ。

ご縁を紡いで・・

Blognoteから転記します。

NPO法人あおぞら

目次

  1. 出来る事から
  2. 保護猫達は
  3. あらためてお知らせします

出来る事から


先日、こちらを訪ねてこられた個人保護活動家のFさん。お宅には15匹の保護猫達が同居中(=^・^=)
保護猫だけではなく、地域猫達の為にも孤軍奮闘❢❢ 
外猫達の為に尽力されているようです。
先日、ご紹介した、病院に預かって頂いている仔猫2匹も含め、里親さん探しの為の譲渡会も考えていらっしゃいます。
という事で、私共も出来る事からご協力をさせて頂きたいと思っています。 

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保護猫達は

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Fさんが保護している猫達の中には、発症はしていませんが、(=^・^=)エイズをかかえた「ぶっちゃん」と云う子もいます😺
人懐っこく大人しい子のようで、今は可愛がられながら幸せに暮らしているようですね。
私共のメンバーさんにも、結構、病気の子たちの面倒を見ている方々もいらっしゃいます。よく言われる様な他の子たちへの悪影響も無く、長年一緒に暮らしているようですよ。

いろんな偏見と誤解をへらしていくような活動も大きな保護の輪を広げる為には必要な事の様ですね。
このような子達も含め、今後、広くご紹介していくことで、ご理解のある優しい方々に新しいご縁が出来ればと願っています。

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でも、忘れてならない大事な事は、里親さんになるということは、可愛い可愛いだけではなく、そこに派生するいろんな問題を含めて、責任を持って解決していくという覚悟も必要と云う事です。ともすると表面的な事に流されがちになる事もあるようですが、其処はやはり、しっかりとした展望をもっていただければ猫達にとっても安心して暮らして行けることにつながる事と思います。
 

あらためてお知らせします


今迄も、里親さん探しのネットツール「ペットのおうち」等々も活用させて頂いていますが、Fさんの保護している猫達についても意向をお尋ねしながら順次ご紹介していく予定にしています。
只今、譲渡会も計画中、また面会等々スムーズに出来る様な体制を一緒に考えています。
準備が整いましたらまたお知らせいたします。

https://www.pet-home.jp/member/user816951/ 
ぺットのおうち(あおぞら)

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事態は段々深刻な方向へ(=^..^=)!!

NPO法人あおぞら

「あおぞら」のブログnoteから転用致します。 https://note.com/2019dobutu 

目次

  1. 御相談の連絡
  2. 高齢化の状況で大丈夫?
  3. ニュース見ました
  4. TNR活動

御相談の連絡


昨日、行政の方からご連絡いただきました。
「犬猫の保護をして欲しいと言う問い合わせが、多く寄せられるので、あおぞらさんを紹介してもいいですか」との御相談。
こちらの返答は、「名前を出して貰うのはかまいませんが、こちらで預かると云うことは、スペース・人材・財源等々を考慮して、現状手一杯の状況になっているので難しい。
そこで、相手の方には、事情をお聞きしながら、一番いい方法を考えていくよう、一緒に考えるという方法をとらせていただいてます。」
とお答えさせていたいただきました。
ついでに、現状の動物愛護に関してもう少し行政のあり方として、大局的な取り組みを考えていただくことはできないものなのか、ともお話しさせていただきました。

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高齢化の状況で大丈夫?

こちらには、毎日のように、保護以来の相談、子猫等の引き取り、高齢者の飼っている動物の引き取りの相談等々がひっきりなしという感じです。
私どもだけでなく多分、動物保護に取り組んでいる、多くの団体さんや、ボランティアの方々も同じような状況ではと思います。

相談の電話の中には、他に連絡をしたが、電話をとってもらえななかったと云うことも多々あります。
行政の手の届かない部分を補っていくという側面もNPOにあるのは承知していますが、現状の、おわりのないような状況では、ある程度受け入れ等々制限し、皆様のご協力を仰ぐしか方法はありません。

そう考えているのは私どもだけではないのではないでしょうか。
特に北九州のように高齢化の進んでいる所では、これからもっと深刻な状況が生まれてくるのではと危惧しています。

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ニュース見ました


たまたま、行政さんからの電話と前後して、ローカルニュースで動物愛護の報道をやっているのを目にしました。
お隣の佐賀県のNPO法人さんの取り組みを紹介したものです。
組織的に態勢の整った団体さんで、しっかりと保護活動に取り組んでいらっしゃる様子に感動ですが、そちらでもやはり、150匹を超える犬猫を引き受けていてこれ以上の受け入れは、無理というコメントもありました。
里親さん捜しもされていますが、到底追いつけるような状況でもなく、中でも高齢者さん宅の多頭崩壊状況の支援にも翻弄されている様子も・・。

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TNR活動

そのような状況を見るにつけやはり、きちっとした、公的な相談窓口の設置と啓蒙活動、同時に無料或いは格安の組織的な避妊・去勢活動支援が重要なことと思います。
全国的にそういう活動を組織として取り組んでいる地域もあるわけですから、導入していない行政地域も情報を共有しながら真摯にやり方を学んで頂ければありがたいですね。
すぐすぐに、問題が解決すると言うわけではありませんが、将来的なことを考えると、やはり手をつけていくべき必要があるのでは、と思います。

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動物愛護の抜本的な解決には、民間だけでなく矢張り行政との連携した取り組みが重要なのではと思います❣❢

古事記人名索引 memo Ⅷ(アイウエオ順)

※ 新潮社古典文学集成古事記S54年度版による

※ 表記は 名前 読み方 巻 ページ 登場順の順にて表示

※ ページ数は新潮社古典文学集成54年版古事記による

※ 人名は同一人物の別記・別名また神名と重複するものも全て列記している

※ 普通名詞は個人が特定できるものは表記している

※ 人名表記総数は602 ☞ 内訳 序 12 上 1 中 370 下 219 

全てを網羅したと思いますが、脱記があった場合はご容赦お願いします。人物の注記は 集大成の注記をも参考に 、古事記内で分かる最低限の説明にとどめています。古事記理解及び日本古代史の基礎知識として活用していただければ幸いです。

ワ行つづき

★ 若沼毛二俣王      ワカヌケフタマタノオホキミ    中   184   324      オウジンテンノウ・オキナガマワカナカツヒメ(クイマタナガヒコ次女)長子(若野毛)

★ 和邇吉師        ワニキシ        中   192   346      百済国照古王ノ命により応神朝来朝-論語・千文字一巻等献上→史首フミノオビト等の祖

★ 若日下部命       ワカクサカベノミコト     下   204   392     ニントクテンノウ・カミナガヒメ(ヒムカウシモロ娘)長女 ハタビノワカイラツメ・ナガメヒメ同→ユウリャクテンノウ求婚

★ 丸邇臣口子        ワニノオミクチコ      下   211   398     山代木津川支配氏族→ニントクテンノウ使者口上伝 クチヒメ(イワヒメ侍女)親

★ 若桜部臣         ワカサクラベノオミ    下   224   409    膳臣一族より独立した新氏族→非時トキジク桜花献上による

★ 丸邇許碁登臣       ワニノコゴトノオミ    下   225   411      難波山代地ノ氏族 ツノノイラツメ(ハンゼイテンノウ妃)オトヒメ(妃)ノ親

★ 若日下部王        ワカクサカベノオオキミ   下   239   445      オオクサカノオオキミ妹-ユウリャクテンノウ大后

★ 若帯比売命        ワカタラシヒメノミコト    下   240   447      ユウリャクテンノウ・カラヒメ長女

★ 丸邇佐都紀臣       ワニノサツキガオミ    下   249   454      丸邇(現奈良天理市)ノ豪族-幻ノ氏族トサレル ヲドヒメ(ユウリャク妃)親

★ 丸邇日爪臣        ワニノヒツマノオミ     下   264   478      丸邇(現奈良天理市)ノ豪族 ヌカノワクゴノイラツメ(ニンケンテンノウ妃)親

★ 若比売          ワカヒメ       下   264   482     三尾君一族(祖イワツクワケオオキミ-スイニンテンノウ子)-ケイタイテンノウ妃

★ 若屋郎女         ワカヤノイラツメ     下   265   511     ケイコウテンノウ・アヘノハエヒメ長女

★ 和知都美命        ワチツミノミコト     中   125   55      シキツヒコ次男 淡道ノ御井宮ニ坐ス ハエイロネ・ハエイロドの親

★ 若日子建吉備津日子命   ワカヒコタケキビツヒコノミコト 中   127   82     ワカタケキビツ同 コウレイテンノウ・イロド次男→吉備下ツ道臣・笠臣ノ祖

★ 若建吉備津日子      ワカタケキビツヒコ     中   127   83      ワカヒコタケキビツヒコノミコト同 コウレイテンノウ・イロド次男 吉備下ツ道臣・笠臣ノ祖

★ 若倭根子日子大毘毘命   ワカヤマトネコオホビビノミコト 中   128   88      コウゲンテンノウ・ウツシコメ三男子→第九代開化天皇カイカ 春日伊耶河イザカワ宮-奈良本子守町率川イザガワ付近 63歳崩御 御陵:伊耶河坂ノ上(奈良市油坂町)

★ 若子宿禰         ワクゴノスクネ     中   130   110      タケノウチスクネ七男→江野間臣等の祖

★ 鸇比売          ワシヒメ       中   130   120     カツラギタルミスクネ娘-カイカテンノウ妃

ヲ行

★ 小㑨王          ヲマタノキミ      中   131   127      ヒコイマスオホキミ・エナツヒメ次男→当麻勾君タギマノマガリノ祖

★ 袁耶本王         ヲアザホノキミ     中   131   132     ヒコイマスオオキミ・サホノオホクラミトメ次男→葛野別・近ツ淡海蚊野別ノ祖

★ 遠祁都比売        ヲケツヒメ       中   131   144      意祁都比売オケツヒメ(ヒコイマスオオキミ母)妹-ヒコイマスオオキミ妻

★ 袁耶弁王         ヲザベノオホキミ    中   141    205        スイニンテンノウ・カグヤヒメ長子

★ 小碓命          ヲウスノミコト      中   154    228      ケイコウテンノウ・イナビオオイラツメ三男(太子)ヤマトヲグナ・ヤマトタケルノミコト同 ヤマトヒメ甥ケイコウテンノウの命を誤解し兄オホウスノミコトを殺害→東西反政権部族平定・帰途途中病に斃れる

★ 袁那弁郎女        ヲナベノイラツメ     中   184    322             ミヤヌシヤガワエヒメ妹(ヒフレノオオミ娘)-オウジンテンノウ妃

★ 小羽江王         ヲハエノオオキミ     中   184    330       オウジンテンノウ・ナガヒメ長子

★ 男浅津間若子宿禰命    ヲアサツマワクゴノスクネノミコト 下   204    387             ニントクテンノウ・イワノヒメ三男→第十九代允恭天皇インギョウ遠ツ飛鳥宮-奈良(大和)飛鳥に都した最初の天皇氏姓を正す甲午年正月15日78歳崩御御陵:河内恵賀長枝(大阪藤井市国府)

★ 長田大郎女        ヲサダノオホイラツメ    下   225    420       インギョウテンノウ・オオナカツヒメ長女同母弟アンコウテンノウ大后と同か?

★ 袁祁王          ヲケノミコ       下   239    442      イチノヘオシハノオオキミ次男ヲケノイハスワケノミコト同→ユウリャクテンノウを避け身を隠す 後の第二十三代顕宗天皇ケンソウ 近ツ飛鳥宮-大阪羽曳野市飛島在位8年 38歳崩御 御陵:片岡の石坏イワツキ岡ノ上(奈良北葛城郡香芝)

★ 袁杼比売         ヲドヒメ       下   249    455             ワニノサツキ娘-ユウリャクテンノウ妃

★ 袁祁之石巣別命      ヲケノイハスワケノミコト   下   259    465                       ヲケノミコ同イチノヘオシハノオオキミ次男→ユウリャクテンノウを避け身を隠す 第二十三代顕宗天皇ケンソウ  近ツ飛鳥宮-大阪羽曳野市飛島 在位8年 38歳崩御 御陵:片岡の石坏イワツキ岡ノ上(奈良北葛城郡香芝)

★ 意富祁王         ヲケノオホキミ      下    263   470                    ヲケ同イチノヘオシハノオオキミ長子→ユウリャクテンノウを避け身を隠す 後の第二十四代仁賢天皇ニンケン 石上広高宮-奈良天理市田辺 書記在位11年 御陵:埴生坂本(大阪藤井寺市青山)

★ 小長谷若雀命       ヲハツセノワカサザキノミコト  下    264   476       ニンケンテンノウ・カスガノオオイラツメ長子-第二十五代武烈天皇ブレツ長谷ハツセ列木ナミキ宮-奈良桜井市出雲 在位8年御陵:片岡石坏岡(奈良北葛城郡香芝)

★ 袁本杼命         ヲホドノミコト      下    264   481             オウジンテンノウ5世孫ータシラカノイラツメ(ニンケンテンノウ皇女)婚第二十六代継体天皇ケイタイ 伊波礼玉穂宮-奈良桜井市池之内 丁未年527年4月9日43歳崩御 御陵:三島ノ藍(大阪茨木市太田茶臼山) 

★ 小石比売命        ヲイシヒメノミコト     下   267   519    センカ(センゲ)テンノウ・タチバナノナカツヒメ次女→キンメイテンノウ妃

★ 小兄比売         ヲエヒメ       下   268   548     ソガノイナメ妹・キタシヒメ姨―キンンメイテンノウ妃

★ 小貝王          ヲカヒノオホキミ     下   268   560     ビタツテンノウ・トヨミケカシキヤヒメ(後のスイコテンノウ)長子

★ 小治田王         ヲハリダノオホキミ    下   268   561    ビタツテンノウ・トヨミケカシキヤヒメ(後のスイコテンノウ)次男

★ 小張王          ヲハリノオホキミ     下   269   564     ビタツテンノウ・トヨミケカシキヤヒメ(後のスイコテンノウ)五男

★ 小熊子郎女        ヲグマコノイラツメ    下   269   568      イセエノオオカ娘-ビタツテンノウ妃 

以上