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中村天風のことば

中村天風一日一話

気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【四月の言葉】

*一日 聖賢というものは

優れし人言い換えると蘂手の真理を知っている聖賢と云うものは、心が只単に積極的であるばかりでなく本当の心の強さの中に気高さを持っている人の事なんだ。心の中の気高い強さと云うのは結局要するに卑屈に痩せ我慢で強さを造ろうとするのでなくて淡々として少しも気張らずに強く成り得ていることを言う。だから優れし人には絶対に不運と云うものは来ない。

*二日 真の健康と食物

地上の動物はその食物の種類で凡そ次の三種に分類される。肉食動物・草食動物・果食動物である。元来動物は生きていく為に新陳代謝を行うが、その作用で大なり小なりの毒素は絶えず発生し血液やその他全身の組織の中に存在している。然るに動物を食すれば其の毒素は無条件に食した人の体内に入ることに為る。菜食は肉食よりも遥かに優れているがあらゆる点から見て理想的な食物は果物である。現実的には植物性を七割以上動物性を三割。以下としつつ極力果物を多く摂る様にすべきである。

*四日 積極的態度

何でもない時は矢でも鉄砲でももってこいと云う気に為るけども、健康上に故障が有ったり運命上に少しでも儘為らない事があると、そういう場合こそより一層心の態度が積極的で有らなきゃならないのにすぐ青菜に塩みたいになってしまう。こう云うのを積極的態度と云うんじゃないんですよ。どんな場合があっても積極的と云うのは心の尊さと強さと正しさと清らかさが失われていない状態を言うんです

*六日 外界印象の取捨選別

精神生命に外界の印象を受け入れる時には、その印象を受け入れて良いものか悪いものかを吟味しなければいけない。然しこの時の半分の半分も注意しないで受け入れてる人が多かない?それが結局貴方方を気の弱い神経過敏にしちゃった。神経過敏な人と云うのは五か十ぐらいの僅かな刺激ショックも其れを心に知覚せしめる時には百二百に誇張して感じさせてしまう。斯う云う人は精神生命に外界の印象を受け入れる時此れからは特別入念に吟味して取捨分(選)別を完全にしなきゃいけない。

*八日 人生と心の法則

我々の生命の中にある肉体は勿論精神生命も一切の広い意味における人生の事柄は、心の運用如何に拠って決定する事が出来るという真理を私は覚り得たのである。人間の心で行う思考は人生の一切を創る。この法則を巖として自覚して常にこの法則を乱さないように活きるならば人生は期せずして大きな調和の元に満たされる。そして無限の強さと生命の無限の自由と云うものは自然的に出てくる。

*十日 自分自身と云う存在

自分の心や肉体の存在を意識的に自覚したのは多分生後三年か餘年たってかれであろうと推定する。そこで自分で自分に聞いてみる。自分自身が心や肉体の存在を意識的に自覚しなかった当時自分と云うものが存在していなかったか如何か?言い換えれば自分夫の生命は存在していなかったかどうかである。私の生命は自分自身心や肉体の存在を意識的に自覚するかどうかに関係なく、既にその以前から立派に存在していたのである。

*十三日 理智に依存しない人生

理性や感情と云うものはその人の心身に享受した教養や又は経験から培養された理智を根源とすると云う忽諸に附す可からざる大きい事実関係がある。然し理智なるものは常に間斷無き発育的情勢を以て推移していると云う相対的なものである。然るに斯くの如く多分に変移性を持つものに人生生活を依存すると屡、其処に図らざる蹉跌が生ずるのは必然で煎じ詰めれば人生の悲劇も地獄も不平も不満もそうした無自覚を基点として発生するのである。

*十五日 無駄な精神消耗

神経系統と云うものは人間の命を活かす生活機能の中で一番大切なもの言い換えれば神経系統の生活機能のお蔭で我々の生命は斯うして生き永らえているのであるが、やたら気取ったりぶったりしている人は勿論自分では結果にそう云う良くない事実が生じてくる事に気付かないで、否気付かないと云うよりも無知であるが為に考えること無しにと云って好い程無頓着で矢鱈と価値の無い無駄な神経消耗を殊更に行っているのである。

*十八日 苦行より自覚

真理と云うものを知らなかった時代の私は、何か苦行をするとか或は特別苦心の研究と云う様な事をしない、完全に理解する事が出来ない様に思っていた。然しそうじゃない。現にインドに行って耐えられない難行苦行は余りしなかった。しないでも真理を掴めた。苦しい修業をしてからでないと自分は強くなれないと考えていると、強く生きられないのが自分の無自覚からきていると云う事に聞か付きません。

*二十日 悟れば幸来る

悟れば一瞬にして幸来る此の真理が心の中に輝くと健康も運命も共に求めずとも完全に成る様に出来ているのが人間なのである。其れは心と神経との関係を考えればすぐ実証される。そしてこの宇宙の生命エネルギーを自分の生命に受け入れるのも復そのエネルギーを全身に分配するのも神経系統が行っていて、その神経系統が直接または間接に心の支配を受けている爲であると分かれば、どんな人間でもこの厳粛な事実の上から自分の心の立派な論定が出来るに違いない。

*二二日 不平不満の悪影響

知る識らざるを問う事無く不平不満を口にすると云う心持をその心に持たせると、人間それ自身を不幸にする場合が多く招来されて、決してその心的態度から幸福と云うものは発生しないのである。と云うのは直接的には判断力断行力更に精神力と云うものがどんどん委縮減退し、間接的には体力や胆力果ては精力まで其の良くない影響が波及されて、結論的に言うと生命力の一切が劣弱になってしまうのである。

*二四日 内省検討と暗示分析

病難に際し又は運命難に直面した場合には平素充分心身統一法の理解に透徹していると思っても、そう云う場合修養未完成の人はその事柄に引きずられて知らず知らず心の平安を失いその結果独立自尊と云う尊厳な立場から他力依存と云う勝階級の極めて低劣な方面へと自己の心的態度を転移して、無益な焦燥と混迷を敢えて為すと云う愚行を行う恐れがない訳では無いから、そういう場合に更にさらに入念周到に内省検討と暗示分析とを実行して心境の浄化清純に努力されるよう心より付言する。

*二七日 運命について

運命には二種類ある。天命と宿命である。店名は絶対で宿命は相対的である。如何にも仕様の無い運命を天命と云い人間の力で打ち開く事の出来るものを宿命と云う。女が女に生れ男が男に生れたのは天命である。りどうする事も出来ない。処が今の人は打ち開く事の出来る宿命にぶつかった時でも其れを天命と云う。自分の努力が足らない事は棚に挙げて如何にも仕様 がないと云う。

*二九日 世の爲人の為

富や地位を造って自分の人生欲望だけを十二分に満たす事已を想像すると云う事は断然排斥すべき向下的想像だ。宜しく健康想像と同様に金を造って、人の世の爲に尽す仕事を仕様と斯うなりゃ本物だ。又そうしなかったらその人にどんなに金が出来てもその金はその人に本当に安定した幸福を感じさせないんだよ。モデルが完全であってこそ作品も完全だ。想像は詰る所人生形成のモデルなんだ。

中村天風の言葉

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

今回から、 中村天風(1876年7月30日 – 1968年12月1日)の著「一日一話」 から毎月その月の言葉を幾つか選びご紹介いたします。

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。     天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

六月の言葉

*一日 自運勢を難しく考えない

人生を余り難しく考えない方が良い。難しく考えると分からなくなる。真理は足元にある。高遠な學理の中に在るのではない。基より軽率な考え方ではいけないが、なまじ学問をした人は真理は遠く大海の底、深山幽谷の奥山に在るような思い違いをすることが多い。人間それ自体の生命存在を思案の中心に於いて考えれば大きな的外れをしないで済む筈である。人間の心の在り方が結局人生を支配する法則の根本である。

*六日 心大らかに

「人各各運命に活きる人世なれば心大らかに過ごさんものを」          之を自分で歌に作っているだけに自分で是を実行している。是は本の瞬間の自分の心の持ち方だ。瞬間消極的な事は心の中に入れないことだ。然し入れない様に頑張ると心の中で戦争しなきゃならないからふっといなしてしまえばいいんだよ。

*八日 不運から心を離す

病也運命から心が離れた時は病が在っても其の人は病人じゃない。運命が悪くても其の人は運命の悪い人じゃない。ようく寝ている人間は何も知らない。何も知らない人間に病があるか。目が覚めて嗚呼病があると思うんじゃないか。運命が良くってもいいか運命が悪い時の事を考えてりゃその人は運命が悪いのと同じだ。その位の事あ羅貯めて私から聞かなくたってもう判ってる筈だ。

*十五日 原因結果の法則

凡そ人生には人生を厳格に支配している一つの法則がある。其れは原因結果の法則である。そして人生と云うものは其の人が自覚するしかないかを問わず、この法則を応用する度合いに比例する。即ち蒔いた種の通り花が咲くと云う法則である。俗に言う善因善果悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄を作り又極楽を創るのもこの法則があるからである。

*十八日 不幸は幸福を招く原動力

不幸に直面したら先ずその不幸に際しても尚且つ生命を失わずに現実に活きていられる事を感謝する事に心を振り向けるべきである。するとそうした心掛け其れ自体が幸福を招いてくる原動力となるのである。

*二二日 心身統一の効果

あらゆる力と云うものは気と云うモノから生まれる。人間が人間の生命の有りの儘の姿である心身一女如を現実にする爲、心身を統一した活き方を行えば当然生命存在の根源を為す処の気と云うモノの収受量が増大する。そして命の力の内容量も亦当然豊富となりそれが精神方面に表現すれば心の力となり、肉体方面に表現すれば体の力となる。人生建設の根源要素となる体力胆力判断力断行力精力能力の六つの力も之に応じて優秀化してくるのである。

二四日 先ず気分から若返る

年寄染みた物の言い様や動作を出来るだけしないように注意する事である。ものを言う時も溌溂とした気分で丹田の力で出来るだけ勢いのある音声を発する様にし、立ち居振舞いも活発にする事である。所謂若返り法や健康法の効果を挙げる事の根本には此れが必要である。要するに第一に必要な事は先ず気分から若返る事である。即ち精神を青年にする事である。此れが命の源泉である。

*二七日 見えなくてもある

科学的教育を受けた者は、感じないもの見えないものは無いものだと思っている。直に証拠はと聞きます。第一我々の生きている現在の大気の中には、酸素窒素その他の我々の生命性活動を力づけるに必要な要素が存在している、と云う事は誰にも見えやしない。其れでも見えなくたって在ると信じますよ。証拠はとは云いませんよ。人間の住む地球上には電波が縦横無尽に交錯していると云う事は形が見えなくても疑わないでしょう。

*三十日 人間の能力

人間の本来の面目は創造的なものである。それ故に人間が万物の霊長として一切の生物を遼河して優秀なる能力を生れ乍らに賦与されているのは是が在る爲である。しかも特に疎かに出来ない事は、其の賦与量は些かも差別の無い公平なものである。この一言を考慮されても自己の現在使用している能力に対する反省が厳格に行われて、その是正が確実に施されるなら一切の総ては悉く可能に転換され収握される事も亦必然自明の事と感得される。

論語・老子・禅 Ⅰ

安岡正篤著

はじめに

 縁尋機妙 多逢勝因

良い縁はさらに良い縁を尋ねて発展してく将に、その機(出会い)は妙なるものがある 之を縁尋機妙という                                 いい人と交わっていれば良い結果に恵まれる 此れを多逢勝因という              ヒトだけではなく出来るだけいい機会・いい場所・いい書物に出会うことを考えねばならない。とは安岡正篤師の言葉。

此の書物の題名を見たときに直観的に思ったのは、是はもしかしたら空海さんの「三教指帰」を意識されたのかなということ。関係ある無しは別にしてこれらの考え方は、日本古来から人を救う道として敷衍されてきた思想。

現実主義的思考実践法から形而上的思考実践へ                             人の心の中を垂直に深く深く掘り下げていく考え方で、それぞれの指針になる方法が、論語☞老子☞禅 なのかもしれませんネ。

この本の中から、好きなところをピックアップしてみたいと思っています。  まずは「論語」の冒頭部分から・・・

論語ー綸語・輪語・円珠経

さて、論語は此れ世人が余り知らないかと思いますが、別名を綸語と云い、また輪語、或いは円珠経とも言うております。何故綸語と云い、輪語・円珠経と言うのかと申しますと、これがまた大変深い意味があり、味わいがある。昔から論語の参考書と云えば、先ず第一に挙げられるのが六朝時代の大学者、皇侃オウガンの「論語義疏」でありますが、其れに依ると漢代に鄭玄ジョウゲンという学者がおって、世務を経綸することが出来る書物だと云ったことろから、綸語と云う語ができたとし、又其の説く処は、円転極まり無き事車輪の如しというので、輪語と云うのだと註釈しております。                       更に円珠経については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らさないが、珠は一寸四方の小さいものでも、上下四方を照らす。諸家の学説は鏡の如きもので、一面を照らすが四方を照らすことはできない。            そこへ行くと論語は正に円なる珠と同じで、上下四方円通極まりなきものである。と云う所から円珠経と言うたのだと述べられております。

これは、論語の講義第一講の冒頭からの引用です。                要は論語は読み手次第、読み方次第で 仕事に関係なく 時代に関係なく、すべての人の折々に進むべき方向を示してくれる書物ということになるのでしょうか。あとは論語の内容を自身の事としてどう読み込むことが出来るかということでしょう。

では、第一講の最後の部分をご紹介します。

命と礼と言

不知命無以為君子也 不知禮無以立也 不知言無以知人也(堯 曰)             命を知るらずんば以て君子無きなり 礼を知らずんば以て立つ無きなり 言を知らずんば以て人を知る無きなり

・・・言は今日で言うと所謂思想・言論でありまして、其の思想・言論というものの本当の事がわからなければ、人を知ることが出来ない、人間の世界がわからないという事であります。先程も申しました様に、戦後は思想・言論、特にイデオロギーが長い間巾を効かせてきたのでありますが、漸くこの頃になってイデオロギーの終焉ということが言われる様になり、マルクス・レーニン主義であろうが、民主主義・自由主義であろうが、単なるイデオロギーだけでは人は救われない。本当の文明は栄えない。と言うことがはっきりと論述されるようになってきた。孟子は「吾れ言を知る」というておるが、今にして初めて成程そうなのだとしみじみ思う。                             孟子はその言を解して四つ挙げておる。                              詖辞 偏った言葉、概念的・論理的に自分の都合の好い様につける理屈。     淫辞 濫りがわしい言葉、淫は物事に執念深く耽溺すること。丁度中共理論の如 きもので、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすること。       邪辞 よこしまな言葉、邪な心からつける理屈。                  遁辞 逃げ口上。

此の頃の過激派学生などは皆、邪辞・淫辞ばかり言うておる。大学教授や進歩的文化人と云った連中は専ら遁辞陀ります。今は詖淫邪遁の言が一斉に流行しておると言うて宜しい。こういう時こそ論語や孟子を読んで、しみじみ会得するというか、啓発されることが大事であります。                                        現代を最もよく把握し、最も正しい結論を得ようと思えば、論語でも充分であるというても決して過言ではありません。只、皆がそう読まないだけの事であります。論語を知らぬものは無い、又、読まぬ者はないけれども、だいたいは論語読みの論語知らずに終わっておる。是は決して他人を責めるのではない、お互いにそうだということです。                               そうして本当の事が良く判らぬ人間が集まって、てんやわんやと騒いでおる、と言うのが今日の時代であります。そこでこの時代、この人類は如何にすれば救われるかとなると、やはり学ばなければならない。正に論語に云う通り「学に如かざるなり」であります。終日物思えども何にもならん、お互いに大いに学ぼうではないか。之を講義の結論に致します。

この本が刊行されたのは、昭和58年の初版、其れ迄の師友會の講演内容から抜粋まとめたもの。                                     現代は昭和・平成は終わり令和の時代となっていますが、師の言葉の中に在るように「本当の事が良く判らぬ人間が集まって、てんやわんやと騒いでおる」という状況は、全くそのころと同じ否、寧ろ酷くなっているのではと感じます。当時は曲がりなりにも論語等を紐解く方々も多くいらっしゃたでしょうが、現代果たしてどれだけの人が論語等の書籍に触れているでしょうか。「論語読みの論語知らず」という言葉さえ死語となりつつあるのではないでしょうか。                        安岡正篤師は論現実社会社会の問題解決に最も有効な書だと紹介しています。 今一度真剣に教育のあり方をはじめすべての面の見直しが必要な時ではと思います。松下幸之助翁も「知識はいくら持っていても人間の心乃ち、良心が養われなければ、そういう悪い方面に心が働き知識はかえって仇を成す」と言っています。現代、教育の第一歩は徳育、知識はそのあとにということでしょうか。

明治次第の経済界の巨人渋沢栄一は多くの西欧の文化制度を採り入れながら近代経済国家の構築にまい進されたのですが、ご存じの様に其根本理念として根底に据えていたのは「論語」です。此の一事からも、論語は単なる道徳書ではない事がわかる筈、要は、どれだけ自分のこととして読み解くことができるかということなのでしょう。                             論語は決して古い思想の書物ではない。社会的歪の大きくなってきている現代こそ最も必要な本なのではないでしょうか。

最後にこの「論語・老子・禅」の論語の部分でも、アポロ11号の月着陸の言及しているところがありますが、松下幸之助翁もこの本と同じころに出版された、「続・PHP道をひらく」の中でアポロ11号の事に触れ人の心について語った記事がありましたので引用いたします。

人心の深淵

人類が月を歩いたのは、所謂科学の偉大な勝利だともいわれているけれど、その価額を駆使したのは人間で、人間あっての科学ということを考えれば、つまりこれは人間のそして人類の偉大な成果だということになる。どこの国の誰が成功しようとも、其れは長い歴史のなかの数知れぬ人間の願いと知恵と体験が積み重なった結果であって、其の事を思えば、お互いに人類の一員として肩をたたいて素直に喜びあい、人間としての誇りを改めて持ち直してもよいであろう。    そんな偉大な人間が、今もなお測り兼ね、開発しきれないでいるのが、わが心の動きである。人の心の深淵である。ともすれば、捉われた心でヒトを責め、他を罵り嫉みと恨みに自他ともに傷つく。吾れさえ好ければの思いで、如何して人心の開発が図られるであろう。                             月と共にわが心、人間の心にもアポロを打ち上げて、人心の深淵を究めつくし、、その開発を謀って自他ともに栄え合う真の人の世を生み出したい。人類の、そして一人ひとりの一番大事な課題であろう。

言うまでも無く、科学だけでは人の心は開発できるものではありません。極論すればアポロに変わるものが「論語」であると安岡正篤師は教えてくれてます。

次回もこの著書から紹介をしていきたいと思います。