タグ別アーカイブ: #百朝集

神道のこころ

神道は現代の言葉を仮りて言えば、常に永遠の今に生きる 今と云う永遠の時点に立つ 故に神世は今に在り 今はまた神世に在る 天地開闢万物造化は機であり 機前を元とし本とする その元本を離れ違背して 天地人間の純粋な自律的統一体たることを無視し 己私を恣ままにするところに 後世のあらゆる迷い・罪・汚れを生じる 元来人は万物の霊長であるから神物である その人の心と云うものは神明である 万事は一心より起る 元に元し、本に本づき 本心に任じて正直清浄なれば神人合一して自由自在である

           安岡正篤-百朝集第91番(大神宮参詣-坂士仏)解より

伊耶那岐神様 伊耶那美神様は宇宙の生命として人間総ての内、否、萬物の内に活きていらせらるる神様でございますから、人間の一擧一動は伊耶那岐 伊耶那美の神様の現はれでございます。我々人間は萬物と共に此の二柱の神様の天地創造事業を今日も未来も永久に行ふものであります。伊耶那岐神様 伊耶那美神様の申傳へは昔のことではございませぬ、今日の事であり、又未来永久いつも最新なる事を申上る譯でございます。

筧克彦東京帝国大学法学博士 ―神ながらの道(大正13年皇室講演録)    第四章第一節天地創造の言傳の性質 から

【礼拝】

掛けまくもかしこき天照大御神の御前を慎み敬ひをろがみ祭る

天晴れ あな面白 あな手伸し あな明け おけ
(二拍手一拝)

阿波礼 阿那於茂志呂 阿那多能志 阿那佐夜憩 飫憩                                           (古語捨遣)

生命ㇵ清明ー魂  精神ㇵ神明ー心  実相ㇵ清浄ー身魂

【神道雑記】

日本には古来から八百万の神々がおられるという。又日本人の信仰は自然崇拝で山や木や石や諸々の自然物を拝んだともいう。しかし私には日本人が自然そのものを崇拝したとは思えない。自然が神だと信じたなどとは何としても思えない。物を神などと云うグロテスクな信仰なら当の昔に滅んでいたはずである。確かに日本の自然は豊かで美しい。しかし、美しいものを愛でる心から信仰が生まれるだろうか。私は信仰とはもっと堂々とした心から出て来るものだと思う。自然は神そのものではないが神々の宿り給う依代である。

        神道民俗芸能の源流   鈴鹿千代乃著  国書刊行会より

須佐之男命は疫病をその手中に握る神であるからこそ荒ぶる神であり、恐ろしい神なのである。そして同時に人々が罹って苦しむはずの疫病を身代わりに引き受けて苦しんでくださる有難い神でもある。・・・・ この疫病神須佐之男命がインドから来たやはり疫病神である牛頭天王の信仰と結びついた。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、忿怒相をした鬼神と謂われる。これが中国の陰陽道の除疫神として取り入れられ日本に伝わって八坂神社の祭神となったのである。牛頭天王と須佐之男命とは、本地垂迹の関係で一体の神仏信じられるようになった。祇園御霊会を天王祭と云うのもここに由来する。

         神道民俗芸能の源流   鈴鹿千代乃著  国書刊行会より

💓好きな言葉です(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

Blogより転写

【三 学

画像1

少くして学べば壮にして為すあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば死して朽ちず ❣❢ 学んでいるとは思えませんが、並んだ書籍の前で寝るのが大好きな「がー♂」(=^・^=)💖保護猫中一番の好い性格です🙀ひょっとしたらテレパシーで読み取っているのかも💖

【六中観】

画像2

死中活あり 苦中楽あり 忙中閑あり 壺中天あり 意中人あり 腹中書あり💓 何物にもとらわれない「たんが」&「はち」傍若無人と云えぬこともありませんが、そうではなく自分軸で自由を楽しんでいるとも云えますね~💖腹中書は持っていないでしょうが・・・(=^・^=)

【六 然】

画像3

自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然 :昔、自民党の某首相が選挙に大敗して辞任する時、記者会見で心境を述べたとき使った言葉でもありますね~💖保護猫「ちゃちゃ」を見ているとこの言葉が自然に浮かんできます(=^・^=)ニャ~💛

【夢 玄】

画像4

夢幻空華 六十七年 白鳥湮没 秋水連天(天童正覺臨終の偈) 潔く生きた愛猫「きー♀」を偲んで・・💖

画像5

きー♀」は一昨年10月に23年の猫生を終えて無事に虹を渡りました(=^・^=)「きー」が逝く前後、数日間と云うもの西の空には美しい虹が毎日の様に懸っていました💖 今日は、読書の秋を迎えるという事で、安岡正篤師の著書「百朝集」から好きな言葉を選んでみました❢どうぞこれらの言葉が死語とならぬよう願っています❣❢

法三章

百朝集74章

沛公諸県の父老豪傑を召して曰く、父老、秦苛法に苦しむこと久し。誹謗する者は族せられ、偶語する者は棄市せらる。吾、諸侯と約す、先づ関に入る者は之王たらんと。吾、、当に関中に王たるべし。父老と約す、法三章のみ。人を殺すものは死し、人を傷つけ及び盗せば罪に抵さん。余は悉く秦の法を除去せん。諸吏人皆安堵することを故の如くせよ。凡そ吾来る所以は父老の為に害を除き、侵暴する処に非ず。恐 るる事莫れ。且吾軍を覇上に還す所以は諸侯の至るを待って約束を定めんとするのみと。乃ち人をして秦の吏と県の郷邑の行て之を告諭せしむ秦人大いに喜び、争うて牛羊酒食を持ちて軍士献饗す。沛公 また譲りて受けずして曰く、倉粟多く乏しきに非ず。人に費やすを欲せずと。人亦益々歓び、沛公の秦王にならざるを恐る。 史記「高祖本紀第八」

安岡正篤解

革命と政治の要訣はこの一文に尽きると思う。此れの判らぬ者は政治を語る資格のない者である。政治は如何に民情を掴み且簡易化するかである。

この百朝集の巻頭の言葉に安岡正篤師は「易経」も言葉を引用している。

曰く「易簡而天下之理得矣」ー易簡にして天下の理を得たりー

また官庁に省という字を使うのは物事は省いていって簡略化するという意味が込められているともおっしゃっている。はてさて現代の日本は如何なものか。何事も複雑化していっているよう見えますね。
複雑化した 社会・国際関係の現代では仕方がないということかもしれませんが、素人目には、逆転の発想で簡素化することでより住みやすい社会が実現できるのでは、などと思ったりもします。複雑化したことでそれを利用する輩も出てきているのではなどと思ったりもします。現代の日本国際社会の政治行政体制は安岡正篤師の目から見れば、いわば天下の理には程遠い体制ということになるようですね。