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古事記成立に関する私見(妄想です)

次にあげる方々の著作を参考にしながら、心に浮かんだ妄想に近い考えをメモとして書き留めました。

ですから、内容は下記の方々の著作品内容とは全く関係ありません。又、其の時に思いついた事のmemoなので、文脈は全く無視。ただ只管、浮かんだことを書き連ねただけのものです。あらかじめお断りしておきます。

吉野裕子 谷川健一 梅原猛 福永光司 田中卓 谷省吾 小松和夫 上山春平 

河合隼雄 吉田敦彦 長部日出夫 宮田登 八田幸雄 安岡正篤 上田正昭  原田大六  永藤靖 鈴鹿千代乃 筧勝彦 柳田国男・折口信夫 津田左右吉

民俗伝承伝説・道教の影響・まつり継承

     御柱・岩代巨岩・巨木信仰・依代・山信仰龍・蛇・陰陽五行  

日本の神道を考えるには日本人の思想の最も深い部分に関わるものであるので

宗教思想の時代的変遷を見ることは勿論歴史的時代思想的考察・民俗学的 神

話学的考慮・政治力学的アプローチ等々総合的な考察が必要。

青森三内丸山縄文遺跡巨木祭祀跡 → 信州長野諏訪神社 御柱祭 → 

出雲大社 神殿 → 伊勢神宮 心御柱

三輪山 巨岩依代   宗像沖ノ島 巨岩祭祀遺跡   石上神社 杉巨木

原神道  

呪術呪詛 アニミズム 縄文期 ~ 弥生中期  4C後期

卑弥呼鬼道 シャ-マニズム  鬼道    原始道教の影響

(東北・棟方志功 ルーツは北部九州・宗像三女神奉斎宗像海人族) 

※  神道として体系化される以前の神々の原型 巫女の存在

→比売神: 各地に祭神として比売神奉斎

※古事記における 別分三神アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・ カミム スヒの原型は宇宙神か 縄文~弥生中期期の神々の記憶を現わすか?

※  古事記 仲哀記 大御琴(オオミコト神託を得る)

→(詔―みことのり原型;詔勅)

古神道 部族奉斎 アニミズム・シャーマニズム基礎 各部族(豪族)神

物部神道 忌部神道 布留(フル:振る)神道 呪術祈祷

    道教(老荘思想・民間信仰)の影響

仏教伝来 塔・寺院・仏像・経典

    宗教戦争 神道・仏教 

神仏習合 民間信仰神山岳信仰神 

現神道 律令・中央集権統一  禊・祓い 誓約(ウケイ) 7C前期

中臣氏・藤原氏 中臣鎌足 六韜 

神々の系統化 神殿(神社)の整備 → 仏教伝来に因り神殿造営の必要性

  ※ 古事記 天皇家由来譚 謀略騙し討ち多し 

藤原氏物部氏由来譚 戦略

※ 古事記は 戦略策略を最高の知恵と考える者によって編纂されている

※ 天照大御神 原型は縄文以降弥生期までの巫女(シャーマン)イメージ

  (持統天皇→文武天皇 元明・元正天皇→聖武天皇)

国家神道トハ3000年ノ神道(信仰)歴史ノ中ニアッテ僅カ数十年ノ特異ナ現象・儀礼神道

※ 時代は一人の思想家・創造者・リーダー・指導者・指揮官に因って造られる

      その下には、組織された集団・体制ができ、その下に無防備な大衆・民衆が従う

 稗田阿礼 二人か?(私見)

天武天皇 原古事記 

 稗田阿礼 = 柿本人麻呂 壬申の乱 天武方  文才知識人 

        旧辞・帝辞を参考に原古事記の作成 神話部分の創作(各氏族伝承及民俗伝承)

その知識と美麗なる表現力により宮廷歌人として尊崇される

        氏姓性の精神的支柱としての存在

元明天皇 現古事記 天皇家及び藤原氏を中心とする官僚体制・律令制の思想的支柱

 稗田阿礼 = 藤原不比等 壬申の乱 近江(天智)方 謹慎(田辺史へ) 帰化人の最新知識吸収

  政治官僚体制の原案 朝廷中枢へ 弱体朝廷の不安を一掃

天皇制 藤原氏中心官僚体制・律令制の強化  

藤原不比等による 原古事記の神話改竄 官僚体制・律令・政治・祭祀組織化

※柿本人麻呂 藤原不比等 対立 → 政治的権力大の不比等により 人麻呂排斥

(例えばヤマトタケルの物語の如く)遠地への排斥→絶望入水自殺

古事記序文 天武朝 稗田阿礼ハ柿本人麻呂 新体制下では抹殺すべき存在、本名を隠蔽 

生まれ卑しきという意味の名     

元明朝 稗田阿礼ハ藤原不比等 原古事記編集者と同一人物と見せ且つ

藤原氏中臣氏影響を隠蔽の為

氏姓制      律令制

両人とも朝廷(元明・元正帝)では誰を指すことかわかる

柿本人麻呂:氏姓制 ネノクニ (地霊)国津神 藤原不比等;律令制 タカマハラ (降臨)天津神

天武天皇 :  柿本人麻呂 > 藤原不比等

持統天皇 :  柿本人麻呂 = 藤原不比等

文武天皇 :  柿本人麻呂 < 藤原不比等

元明天皇 :  柿本人麻呂 < 藤原不比等

ハッキリとした罪を告発することは(被冤罪)人麻呂の個人的人望また、天皇家藤原氏の 政治的状況において危険(多くの氏族の反感反動へつながる)  何らかの理由を設けて中央より遠地へ排除→例えば「風土記」作成指導等

安心脱生死大丈夫

「好きな言葉―年の初めに」

安心脱生死大丈夫

ー物事に捉われない自然な心で、生とか死とかも超越して佛の道を行うー

作家新井英生解より

意味はともかくこのような境地に到達できるのはやはり仏道と云うか禅の神髄を極めたものでなければいきつくことができないもの、私どもには到底計り知れない世界、唯、何となく感じるだけと云う事になりますが、この言葉の持つ力強さ、言葉の響き・迫力が何とも心地いい感じで好きな言葉のひとつです。

この言葉どういう状況で使われたのかと云う事は、プレジデント社出版の経済経営雑誌「プレジデント」の古い号の特集記事「仏典のこころを読む」(1991年7月号)の中で作家新井英生が「井伊直弼と正法眼蔵―受身捨身ともに布施―が支えた開国の決断」と云う小文で、紹介しています。

幕末近い江戸末期、彦根藩菩提寺、曹洞宗清涼寺、住職仙英禅師が当時不遇時代を経て彦根藩主となり幕府の要職に就いていた、仏門の弟子でもある井伊直弼より第一回ペリー来航(1853年嘉永5)の問題に関して書状が届いた。

その書状に対し仙英禅師が与えた返信書状の中に説かれていた詞。

直弼は不遇時代、文武両道に励み仏道においては仙英禅師の薫陶を受け三関六転語という禅の公案の難問をすべて解き、印可を受ける程の精神的高みにまで達していたとのこと。

禅師より印可を頂けるほどの域に達していたはずの直弼もやはり国家の一大事、ペリー来航開国要請に際しては判断に些かの迷いが生じたのでしょう。

書状を以て師である仙英禅師に、二度と来航しない様、祈祷してくれないかと懇願しています。

この書状に対する仙英禅師の答えが、「異国船降伏祈願のことは承知しました。が、今まで禅の修業を積んで難問の三関六転語の真理を悟っているはずの、御前(直弼)であれば究極の秘法を収めていると同じ事、「安心脱生死大丈夫」の境地で乗り切れるのでは」と直弼へのエールを送っています。

この言葉を戴いた直弼は一瞬にして気づく処があったようで、迷いを絶ち数ケ月前までの攘夷論を覆し、開国を奏上し国家未曾有の外交的窮状を救い、日本の未来を切り開く結果となったのはその後の歴史で周知のとおり。

その後、直弼はご存じの様に桜田門外で水戸浪士の襲撃を受け(安政7年3月3日・1860年3月24日)一命を落とす事となりましたが、其れは勿論、開国論に踏み切った当時から覚悟の上のことだったようです。

開国奏上を行った2年後一時彦根藩へ戻った直弼は「戒号宗観院暁覚翁大居士」と認めた自筆の書を他の書状と共に側役の三浦何某に預けたとの事、此れは現在も井伊家に桐箱に収められて厳重に封印され保管されているそうです。

其れが所謂、禅の奥義を極め、道元禅師の「正法眼蔵」を熟読していた直弼の最終的な選択。此の小文の副題に掲げられている「受身捨身ともに布施」と云う覚悟、国家安寧の為に一命を賭すと云う想いだったのでしょう。

書状のそのやり取りの部分を引用しますと

(ペリー再来航を苦慮している最中の手紙のやり取りの一部分です)

直弼、仙英禅師への書状「・・・以後異船之渡来無之様祈念致外無之・・大和尚之御了簡以竊御祈祷希上度候云々

・・イゴ、イセンノトライ コレナキヨウ、キネンイタスホカコレナク・・・ダイオショウノゴリョウケンヲモッテ、ヒソカニ、ゴキトウネガイアゲタクソウロウ・・

仙英禅師返状「・・・抑仏道之秘術密法之降伏一切大魔最勝成就申候御前先年御修終被遊三関六転語之外別無御座候凡王道神道佛道武道儒道惣萬億之秘術密法修業申悉皆極中極至候安心脱生死大丈夫外更無之事存候云々

・・ソモソモ、ブツドウ、コレヒジュツミッポウノ、イッサイダイマサイショウ ジョウジュ、トモウシソウロウハ、ゴゼンセンネン、ゴシュウシュウコウムリアソバサレシ、サンセキロクテンゴ ノホカ、ベツニナクゴザソウロウ オホヨソ、オウドウ・シントウ・ブツドウ・ブドウ・ジュドウ、ソウジテ、マンオクノ、ヒジュツミッポウシュギョウトモウスハ、コトゴトク ミナ、ゴクチュウゴクニ、イタリソウロウハ、アンシンダツショウジダイジョウブ ノホカ、サラニ コレナキコトト ゾンジソウロウ・・

私は、この言葉をメモとして使っている日記帳、3冊目の5年ダイアリー(2019―2023)の表紙の内側に書いていましたが、今年からの新しいダイアリー(2024-2028)にも記しておく事といたしました。好きな言葉ですが、その境地に至ることなど端から到底無理な話かもしれません。が然し、この言葉を事あるごとに眺める事で少しは気持ちの整理もつくのではと密かに思い描いています。

NETから

因みに大丈夫とは、間違いない、あぶなげない、非常にしっかりしている様子を意味しています

もともと、大丈夫は人のことを指しています。丈夫、つまり、ますらお、男子をほめていう言葉ですから、偉大な人、りっぱな人、しっかりした人のことをいいました。この言葉が仏教に取り入れられました。

仏法的には 

「仏」を意味する十種の呼び名(仏の十号)の中に、「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」―法華経にもよく出てくる言葉ですーというのがあり、また、『華厳経』に、「もし諸の菩薩この法に安住すれば即ち大丈夫の名号を得ん」とあります。

このような人は、たよりがいがあり、間違いもないところから、いまのように用いられるようになったのですね。しかし、ほんとうの意味で大丈夫なのは、やっぱり仏さまと云う事になりますか。

感じる事

華厳経と云えば、鎌倉時代の華厳宗の高僧明恵上人の言葉「あるべきやう」と云う言葉があります。

また、江戸時代中期の良寛禅師には「災難に逢う時節は災難に逢うが能く、死ぬ時節には死ぬが能く候是は此れ災難を逃るる妙法にて候」と云う言葉があるそうです。

何れも物事に捉われず自然に生きる生き方を示唆した言葉で、此の「安心脱生死大丈夫」と究極として通ずる言葉だと思います。その境地に到達するのは至難の業ではありますが・・・

言葉の意味は

三関六転語

仙英禅師が直弼に与えた禅の公案の六つの問題―「南泉三不是」と「高峰六転語」を授けたもの

中国唐代の高僧南泉が「仏とは心であり、又宇宙に存在するあらゆる物でもある。然し、仏とか心とか物に執着すれば却って言葉に捉われ道を誤る」即ち「不是心・不是佛・不是物」であると説いたのが三不是

高峰六転語とは同じく唐代禅僧高峰禅師が弟子を試すのに「三関」と云われる公案を与えた。転語とは禅師が学人の低迷を打破し修業に飛躍(転機)を促すために与える語のこと、で直弼が禅師から与えられた六転語の前半が三関と云われる公案

内容は

 大撤人元脱生死 依何命根不断

(ダイテツノヒトハ、モトショウジヲダッス ナンニヨツテ、ミョウコンヲタタズ)

☞ 生死を超越したものが何故命を惜しむのか

仏祖公案元一箇道理 依何在明輿不明

(ブッソノコウアンハモトイツコノドウリ ナンニヨリテメイトフメイトアリ)

 ☞ 心理は一つなのにどうしてあれこれ言うのか

 大修業人元可遵佛行 依何不守毘尼

(ダイシュギョウノヒトモトブツギョウニシタガウベシニ ナンニヨツテカダニヲマモラズ) ☞ 仏の道を修めたものが何故色香に迷うのか

 杲日当空無所不照 依何被遮却片雲

(コウジツソラニアレバマサニテラサヌトコロナシ ナニニヨツテカヘンウンニサエギラル ☞ 晴天白日が何故一片の雲に遮られるのか

 人々有箇影子 依何蹈不着

(ヒトビトニコノエイシアリ ナニニヨツテカフミツカズ)

 ☞ 人はどうして自分の影を踏むことが出来ないのか

 尽大地這箇火坑 得什什麼三昧不被焼却

(コトゴトクダイチシャコカコウジュウマザンマイヲエテショウキャクサレズ

 ☞火の海の中で如何すれば焼かれずに済むか

※訳は作家新井英生解

因みに直弼の解答は残っていないそうですが其れに添えられた道歌が残っているとの事です。其れは、

大撤人 ☞ わたつみの底には淵も瀬もなくて水のみなかみ常に絶えせず

仏祖公案☞ 池の面におもはず映る影なれば澄むも濁るも月の咎かは 

大修業人☞ 峰の花見つつぞ登る一道は枝折のあとも何にかはせん

杲日当空☞ あやにくに猶むら雲のかかれるはあきらけき日のあればなりけり

人々有 ☞ はかなくも身にそふものと思ふ哉おもひすつればかげもとまらず

尽大地 ☞ 天地も身もはやともに燃えぬるをいまさら何かやかれしもする

と云うものだそうです。

解説には「どの歌も直弼の思考は全く自由無碍、心も又道元が教えるように、何物にもとらわれることなく、在るが儘の当に無我の境地であることが肯ける」とあります。

常人にはやはり計り知れない世界に思え、ただその輪郭がなんとなくぼんやりと見えるかなとおもうくらいですね。