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古事記人名検索(Ⅳ)

=あいうえお順=

※ 新潮社古典文学集成古事記S54年度版による

※ ページ数は新潮社古典文学集成54年版古事記による

※ 人名は同一人物の別記・別名また神名と重複するものも全て列記している

※ 普通名詞は個人として特定できるものは表記している

(再録かも??)

※ 人名表記総数は602 ☞ 内訳 序 12 上 1 中 370 下 219

全てを網羅したと思いますが、脱記があった場合はご容赦お願いします。人物の注記は 集大成の注記をも参考に 、古事記内で分かる最低限の説明にとどめています。古事記理解及び日本古代史の基礎知識として活用していただければ幸いです。尚、神名は参考にしている新潮社古典文学54年版「古事記」の末尾附録として掲載されてます。ご興味ある方は、そちらもご覧ください。

因みに 岩波古典文学大系「古事記」の付録は、今に伝わる祝詞のすべてが、また小学館版の「古事記」には上代歌謡のすべてが収録されています。

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タ行

高倉下          タカクラジ      中   111   20   熊野豪族 高天原ヨリ神武救護の刀を授かる

多芸志美美命       タギシミミノミコト    中   119   37  
アヒラヒメ・ジンムの子 後に庶子弟により殺害(当芸志美美命

建沼河耳命        タケヌナカワミミノミコト   中   123   46 ヒメタタライスケヨリヒメ・ジンムの三男タケヌナカワ同 第二代綏靖天皇スイゼイ 葛城高岡宮(奈良御所ゴゼ市森脇)崩御45歳 御陵:衝田ツキタ岡(橿原市四条町田井坪)

多芸志泥命        タギシヒコノミコト    中   125   62  イトク・フトマワカヒメ次男血沼別チヌノワケ/多遅麻之竹別/葦井稲置ノ祖

建波邇夜須毘古命     タケハニヤスビコニモコト   中   128   93
コウゲンテンノウ・ハニヤスビメ長子→崇神記謀反企誅殺

建沼河別命        タケヌナカワワケノミコト   中   129   94
オホビコ長子→阿部臣等ノ祖・崇神記:四道将軍‐東海地方


高千那毘売        タカチナビメ      中   129   97
 オホナビ妹-ヒコフツオシノマコト妻

建内宿禰         タケウチノスクネ     中   129   101
ヒコフツオシノマコト・ヤマシタカゲヒメ長子→イワノヒメ(ニントクテンノウ后)ノ祖父 セイム~ニントク朝に仕える長寿家臣ジングウコウゴウ朝鮮出兵時霊媒者

竹野比売         タカノヒメ       中   130   112
 ユゴリ娘-カイカテンノウ妃

建豊波豆羅和気王     タケトヨハヅラワケノミコ   中   130   121
カイカテンノウ・ワシヒメ長子→道守チモリ臣・忍海部オシヌミベ造・御名部ミナベ造 稲羽ノ忍海部・丹波ノ竹野別・依網ノ阿毘古等ノ祖

建国勝戸売        タケクニカツトメ     中   131   129
春日豪蔟 サホノオホクラミトメ親

丹波比古多多須美知能宇斯王 タニハノヒコタタスミチノウシノミコ 中   131   138
ヒコイマスオオキミ・オキナガノミズヨリヒメ長子 娘エヒメ・オトヒメ→スイニンテンノウ朝サホビコ謀反記事  書紀崇神紀:丹波道四道将軍

丹波遠津臣        タニハノトホツオミ     中   132   157
丹波豪族主 タカヒメ(カニメイカヅチ妻)親 

高材比売         タカキヒメ       中   132   158
 タニハノトホツオミ娘-カニメイカヅチオオキミ妻

建甕槌命         タケミカヅチノミコト    中   135   187
イイカタシミノミコト子ーオオタタネコノ父-オオモノヌシ系

多遅摩毛理        タジマモリ      中   153   224
三宅連ノ祖・アメノヒボコ系譜子孫→スイニン朝常世ノ国ヨリトキジクノ木ノ実(橘)を持ち帰る

高木比売命        タカキヒメノミコト     中   155   243
ケイコウテンノウ・妾妻2- 皇女

帯中日子命        タラシナカツヒコノミコト   中   171   267
ヤマトタケル・フタジノイリビメ(スイニンテンノウ娘)長子→第十四代仲哀天皇チュウアイ 穴戸豊浦アナトノトユラ宮-山口豊浦郡下関 筑紫訶志比宮-福岡香椎 (壬戌年6月11日)崩御-西暦362年比定?)52歳崩御天皇在位9年 御陵:河内恵我長野西エガノナガノノニシ陵(大阪藤井寺市)

建貝児王         タケカヒコノオオキミ    中   172   274
ヤマトタケル・オオキビタケヒメ長子→讃岐綾君・伊勢別・登美別・麻佐首・宮首ミヤヂ別等の祖

建忍山垂根        タケオシヤマタリネ     中   173   291
穂積臣の祖 オトタカライラツメ(セイムテンノウ妃)ノ親

高木之入日売命      タカギノイリヒメノミコト   中   183   300
ホムダマワカ娘長女-オウジンテンノウ妃

建伊那陀宿禰       タケイナダノスクネ    中   183   303
尾張連ノ祖 シリツキトメ(イホキノイリヒコノ妻)ノ親

玉郎女          タマノイラツメ      中   184   334
オウジンテンノウ・カグロヒメ次女

卓素           タクソ        中   192   347
百済国照古王献上 手人韓鍛テヒトカラカメチ-鍛冶技術者 応神朝

多遅摩之㑨尾       タジマノマタヲ     中   199   356
 但馬 (丹波) 国豪族首長か  サキツミ(アメノヒボコ妻)ノ親

多遅摩母呂湏玖      タジマモロスク     中   199   358
アメノヒボコ・サキツミ長子

多遅摩斐泥        タジマヒネ      中   199   359
タジマモトスク長子

多遅摩比那良岐      タジマヒナラキ     中   199   360
タジマヒネ長子→タジマモリノ父

多遅摩比多訶       タジマヒタカ      中   199   361
 タジマヒラナキ次男(長子―タジマモリ)

当摩之咩斐        タギマノメヒ      中   199   363
奈良葛城地帯氏族一族か-スガヒコ妻

田井之中比売       タイノナカツヒメ     中   199   375
ワカノケフタマタ(ワカヌケフタマタ)・モモシキイロベ(オトヒメマワカ)次女-インギョウテンノウ皇后ノ妹

蝮之水歯別命       タヂヒノミヅハワケノミコト  下   204   386
ニントクテンノウ・イワノヒメ三男→第十八代反正天皇ハンゼイ多治比柴垣宮-大阪羽曳野市郡戸コオズ 丁丑年7月60歳崩御 御陵:毛受野モズノ(大阪堺市田出井町)

財王           タカラノオホキミ     下   225   416
ハンゼイテンノウ・オトヒメ長男

多訶弁郎女        タカベノイラツメ     下   225   417
ハンゼイテンノウ・オトヒメ次女

橘大郎女         タチバナノオホイラツメ   下   225   427
インギョウテンノウ・オオナカツヒメ三女

高木郎女         タカギノイラツメ     下   263   472
 ニンケンテンノウ・カスガノオオイラツメ長女

財郎女          タカラノイラツメ     下   263   473
ニンケンテンノウ・カスガノオオイラツメ次女

手白髪郎女        タシラカノイラツメ     下   264   475
ニンケンテンノウ・カスガノオオイラツメ四女-ケイタイテンノウ大后

建小広国押楯命      タケヲヒロクニオシタテノミコト  下   265   488
ケイタイテンノウ・メノコノイラツメ次子→第二十八代ノ宣化天皇センカ・センゲ 檜垌ヒノクマ廬入野イホイリノ宮  -奈良高市郡明日香檜前ヒノクマ 在位4年 書記:73歳崩御 御陵:身狭桃花鳥ムサノツキ坂上(奈良橿原市鳥屋)

橘中比売         タチバナノナカツヒメ    下   266   517
ニンケンテンノウ御子?ーセンカ(センゲ)テンノウ妃

橘豊日命         タチバナノトヨヒノミコト   下   267   535
キンメイテンノウ・キタシヒメ長子→第三十一代用明天皇ヨウメイ
池辺宮イケノベノミヤ三年在位 丁未ヒノトノヒツジ587年4月15日崩御 御陵:石寸イハレ掖上ワキガミ(桜井市倉橋)→後科長中陵シナガノナカノミササギへ

橘本若子王     タチバナモトノワクゴノオホキミ  下   268   546
キンメイテンノウ・キタシヒメ九男

竹田王          タケダノオホキミ     下   268   559
ビタツテンノウ・トヨミケカシキヤヒメ(後のスイコテンノウ)長子

多米王          タメノオホキミ      下   269   565
ビタツテンノウ・トヨミケカシキヤヒメ(後のスイコテンノウ)六男

宝王           タカラノオホキミ     下   269   570
ビタツテンノウ・オグマコイラツメ次女→ヒコヒトヒツギノミコ妃ジョメイテンノウ母 (庶妹)☞ヌカデヒメ・タムラノオホキミ同

田村王          タムラノオホキミ     下   269   583
ビタツテンノウ・オグマコイラツメ次女→ヒコヒトヒツギノミコ妃ジョメイテンノウ母 (庶妹)☞ヌカデヒメ・ヌカデヒメ同

多良王          タラノオホキミ      下   269   585
ヒコヒトヒツギノミコ・タムラノオホキミ三男(長子ハ舒明天皇ジョメイ)

多米王          タメノオホキミ      下   270   593
ヨウメイテンノウ・オホギタシヒメ長子

当麻倉首比呂       タギマノクラノオビトヒロ  下   270   598
当麻地方豪族首長 イヒメノコ(ヨウメイテンノウ妃)親

当麻王          タギマノオホキミ     下   270   600
ヨウメイテンノウ・イイメノコ長子

チ行

千千速真若比売      チチハヤマワカヒメ     中   127   73
春日豪族 コウレイテンノウ妻

千千速比売命       チチハヤヒメノミコト    中   127   74
コウレイテンノウ・チチハヤマワカヒメ長女

近淡海御上祝       チカツアフミノミカミノハフリ  中   131   136
(滋賀県)御上神社神官

千千都久和比売命     チチツウワヒメノミコト    中   134   179
スジンテンノウ・ミマツヒメ次女

知奴王          チヌノオホキミ      下   269   588
ヒコヒトヒツギノミコ・オオマタオホキミ長女

ツ行

土雲八十建        ツチグモヤソタケル    中   116   28
大和忍坂土着生尾蔟 神武敵対

都怒郎女         ツノノイラツメ      下   225   412
ワニノコゴト娘→ハンゼイテンノウ妃

都夫良郎女        ツブラノイラツメ     下   225   414
ハンゼイテンノウ・ツノノイラツメ次女 

都夫良意富美       ツブラオホミ      下   235   436
タケノウチスクネ曾孫豪族葛城氏皇室外戚 カツラギノツブラノオホオミ同 カラヒメ(ユウリャク妃)親-アンコウテンノウ刺殺のマヨワオオキミが逃込む :ユウリャクテンノウに攻められマヨワオオキミと共に死す

都夫良郎女        ツブラノイラツメ     下   265   512
ケイコウテンノウ・アヘノハエヒメ次女

竺紫国石井        ツクシノクニオノイハイ    下   266   514
 ケイタイ朝筑紫にて反乱

ト行(テ行ナシ)

登美能那賀須泥毘古 トミノナガスネヒコ    中   110   19
長髄彦 登見毘古―大和登美豪族 神武東征阻む勢力

登美毘古         トミビコ       中   117   29
大和豪族→長脛彦ナガスネヒコ トミノナガスネヒコ同 神武東征阻む勢力

登美夜毘売  (田+比)   トミヤビメ      中   119   33
トミビコ妹ニ゙ハヤヒ妻(妹登美夜毘売

常根津日子伊呂泥命    トコネツヒコイロネノミコト   中   125   51
アクトヒメ・アンネイ長子

遠津年魚目目微比売    トホツアユメマグハシヒメ   中   133   167
アラカワトベ娘ースジンテンノウ妃

豊木入日子命       トヨキイリヒコノミコト    中   133   168
スジンテンノウ・トオツアユメマグワシヒメ長子→上毛野カミツケノ/下毛野君等ノ祖

豊鉏入日売命       トヨスキイリヒメノミコト   中   133   169
スジンテンノウ・トオツアユメマグワシヒメ長女→伊勢神宮祭祀拝斎初代斎宮

十市之入日売命      トヲチノイリヒメノミコト   中   133   174
スジンテンノウ・オオアマヒメ次女

豊戸別王         トヨトワケノオホキミ    中   154   237
ケイコウテンノウ・妾妻1- 皇子

豊国別王         トヨクニワケノオホキミ    中   155   246
ケイコウテンノウ・ミハカシビメ長子→日向国造ノ祖

登富志郎女        トホシノイラツメ     中   184   336
オウジンテンノウ・カグロヒメ四女

取売王          トリメノオホオキミ     中   203   377
ワカノケフタマタ(ワカヌケフタマタ)・モモシキイロベ(オトヒメマワカ)四女

鳥山           トリヤマ       下   211   397
ニントクテンノウ舎人

豊御気炊屋比売命     トヨミケカシキヤヒメノミコト  下   267   538
キンメイテンノウ・キタシヒメ次女-ビタツテンノウ妃→第三十三代推古天皇スイコ 小治田宮三十七年在位 戊子ツチノエネー628年3月15日癸丑ミズノトノウシノヒ 崩御 御陵:大野ノ岡ノ上(奈良宇陀郡室生町大野・橿原市和田か)後ニ科長大陵(大阪南河内郡太子町)

ナ行

七拳脛          ナナツカハギ      中   171   266
久米直ノ祖ーヤマトタケルノ東西国討伐軍従軍→膳夫

難波根子建振熊      ナニハネコタケフルク    中   179   298
丸邇ワニ臣の祖-神功皇后-太子軍ノ将 反逆軍を斃す

中日売命         ナカツヒメノミコト     中   183   301
ホムダマワカ娘次女-オウジンテンノウ妃

中日子王         ナカツヒコノオホキミ    中   203   380
ネトリノオオキミ・ミハラノイラツメ長子

長目比売命        ナガメヒメ      下   204   391
ニントクテンノウ・カミナガヒメ(ヒムカウシモロ娘)長女 ハタビノワカイラツメ・ワカクサカベノミコト同→ユウリャクテンノウ求婚

長田大郎女        ナガタノオホイラツメ    下   234   434
元オホクサカノオオキミ妻-インギョウテンノウ皇女(アンコウテンノウ同母姉ヲサダノオホイラツメ)?或はリチュウテンノウ皇女 中帯姫ナカシヒメか→アンコウテンノウ皇后

難波王          ナニハノオホキミ     下   259   579
ケンソウテンオウ妃イハキオホキミ娘

長目比売         ナガメヒメ      下   265   503
ケイタイテンノウ・セキヒメ三女 ノノイラツメ同

難波王          ナニハノオホキミ     下   269   579
 ビタツテンノウ・オミナコイラツメ長子

中津王          ナカツノオホキミ     下   269   584
ヒコヒトヒツギノミコ・タムラノオホキミ次男(長子ハ舒明天皇ジョメイ)

ニ行

贄持之子         ニエモツノコ      中   113   21
神武東征援 阿陀の鵜養ウカイの祖(神名)

邇芸速日之命       ニギハヤヒノミコト    中   119   32
登美毘古軍将軍後神武帰順 ニニギ以前高天原より飛来か 物部氏ノ祖 (神名)

仁番           ニホ        中   192   351
百済ヨリ帰化人酒造技術者 ススコリ同 応神朝

ヌ行

沼名木之入日売命     ヌナキノイリヒメニミコト   中   133   173
スジンテンノウ・オオアマヒメ長女

沼羽田之入毘売      ヌバタノイリビメ    中   141   198
ヒバスヒメ(ヒコタタスミチノウシ娘)妹→スイニンテンノウ妃

沼帯別命         ヌタラシワケノミコト    中   141   199
 スイニンテンノウ・ヌバタノイリビメ長子

沼代郎女         ヌノシロノイラツメ     中   154   238
ケイコウテンノウ・妾妻1- 皇女

沼木郎女         ヌナキノイラツメ     中   154   239
ケイコウテンノウ・妾妻2- 皇女

額田大中日子命      ヌカタノオホナカツヒコノミコト  中   183   305
オウジンテンノウ・タカギノイリヒメ長子

奴理能美         ヌリノミ       下   210   396
箇木ツツキの韓人((現京都綴喜郡)百済帰化人統率者 奴理使主ヌリノミ同か 養蚕

糠若子郎女        ヌカノワクゴノイラツメ   下   264   479
 ワニノヒツマノオミ娘-ニンケンテンノウ妃

沼倉太玉敷命       ヌナクラフトタマシキノミコト  下   267   525
キンメイテンノウ・イシヒメ長子→第三十代敏達天皇ビタツ他田ヲサダ宮-現奈良桜井市戒重十四年在位 甲辰キノエタツ584年4月6日崩御 御陵:川内ノ科長(大阪南河内郡太子町)

糠子郎女         ヌカゴノイラツメ     下   267   529
ヒツマノオミ娘ーキンメイテンノウ妃

糠代比売王        ヌカデヒメノオホキミ    下   269   571
ビタツテンノウ・オグマコイラツメ次女→ヒコヒトヒツギノミコ妃ジョメイテンノウ母(庶妹)☞タカラオホキミ・タムラノオホキミ同

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 内宮.jpg

古事記成立に関する私見(妄想です)

次にあげる方々の著作を参考にしながら、心に浮かんだ妄想に近い考えをメモとして書き留めました。

ですから、内容は下記の方々の著作品内容とは全く関係ありません。又、其の時に思いついた事のmemoなので、文脈は全く無視。ただ只管、浮かんだことを書き連ねただけのものです。あらかじめお断りしておきます。

吉野裕子 谷川健一 梅原猛 福永光司 田中卓 谷省吾 小松和夫 上山春平 

河合隼雄 吉田敦彦 長部日出夫 宮田登 八田幸雄 安岡正篤 上田正昭  原田大六  永藤靖 鈴鹿千代乃 筧勝彦 柳田国男・折口信夫 津田左右吉

民俗伝承伝説・道教の影響・まつり継承

     御柱・岩代巨岩・巨木信仰・依代・山信仰龍・蛇・陰陽五行  

日本の神道を考えるには日本人の思想の最も深い部分に関わるものであるので

宗教思想の時代的変遷を見ることは勿論歴史的時代思想的考察・民俗学的 神

話学的考慮・政治力学的アプローチ等々総合的な考察が必要。

青森三内丸山縄文遺跡巨木祭祀跡 → 信州長野諏訪神社 御柱祭 → 

出雲大社 神殿 → 伊勢神宮 心御柱

三輪山 巨岩依代   宗像沖ノ島 巨岩祭祀遺跡   石上神社 杉巨木

原神道  

呪術呪詛 アニミズム 縄文期 ~ 弥生中期  4C後期

卑弥呼鬼道 シャ-マニズム  鬼道    原始道教の影響

(東北・棟方志功 ルーツは北部九州・宗像三女神奉斎宗像海人族) 

※  神道として体系化される以前の神々の原型 巫女の存在

→比売神: 各地に祭神として比売神奉斎

※古事記における 別分三神アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・ カミム スヒの原型は宇宙神か 縄文~弥生中期期の神々の記憶を現わすか?

※  古事記 仲哀記 大御琴(オオミコト神託を得る)

→(詔―みことのり原型;詔勅)

古神道 部族奉斎 アニミズム・シャーマニズム基礎 各部族(豪族)神

物部神道 忌部神道 布留(フル:振る)神道 呪術祈祷

    道教(老荘思想・民間信仰)の影響

仏教伝来 塔・寺院・仏像・経典

    宗教戦争 神道・仏教 

神仏習合 民間信仰神山岳信仰神 

現神道 律令・中央集権統一  禊・祓い 誓約(ウケイ) 7C前期

中臣氏・藤原氏 中臣鎌足 六韜 

神々の系統化 神殿(神社)の整備 → 仏教伝来に因り神殿造営の必要性

  ※ 古事記 天皇家由来譚 謀略騙し討ち多し 

藤原氏物部氏由来譚 戦略

※ 古事記は 戦略策略を最高の知恵と考える者によって編纂されている

※ 天照大御神 原型は縄文以降弥生期までの巫女(シャーマン)イメージ

  (持統天皇→文武天皇 元明・元正天皇→聖武天皇)

国家神道トハ3000年ノ神道(信仰)歴史ノ中ニアッテ僅カ数十年ノ特異ナ現象・儀礼神道

※ 時代は一人の思想家・創造者・リーダー・指導者・指揮官に因って造られる

      その下には、組織された集団・体制ができ、その下に無防備な大衆・民衆が従う

 稗田阿礼 二人か?(私見)

天武天皇 原古事記 

 稗田阿礼 = 柿本人麻呂 壬申の乱 天武方  文才知識人 

        旧辞・帝辞を参考に原古事記の作成 神話部分の創作(各氏族伝承及民俗伝承)

その知識と美麗なる表現力により宮廷歌人として尊崇される

        氏姓性の精神的支柱としての存在

元明天皇 現古事記 天皇家及び藤原氏を中心とする官僚体制・律令制の思想的支柱

 稗田阿礼 = 藤原不比等 壬申の乱 近江(天智)方 謹慎(田辺史へ) 帰化人の最新知識吸収

  政治官僚体制の原案 朝廷中枢へ 弱体朝廷の不安を一掃

天皇制 藤原氏中心官僚体制・律令制の強化  

藤原不比等による 原古事記の神話改竄 官僚体制・律令・政治・祭祀組織化

※柿本人麻呂 藤原不比等 対立 → 政治的権力大の不比等により 人麻呂排斥

(例えばヤマトタケルの物語の如く)遠地への排斥→絶望入水自殺

古事記序文 天武朝 稗田阿礼ハ柿本人麻呂 新体制下では抹殺すべき存在、本名を隠蔽 

生まれ卑しきという意味の名     

元明朝 稗田阿礼ハ藤原不比等 原古事記編集者と同一人物と見せ且つ

藤原氏中臣氏影響を隠蔽の為

氏姓制      律令制

両人とも朝廷(元明・元正帝)では誰を指すことかわかる

柿本人麻呂:氏姓制 ネノクニ (地霊)国津神 藤原不比等;律令制 タカマハラ (降臨)天津神

天武天皇 :  柿本人麻呂 > 藤原不比等

持統天皇 :  柿本人麻呂 = 藤原不比等

文武天皇 :  柿本人麻呂 < 藤原不比等

元明天皇 :  柿本人麻呂 < 藤原不比等

ハッキリとした罪を告発することは(被冤罪)人麻呂の個人的人望また、天皇家藤原氏の 政治的状況において危険(多くの氏族の反感反動へつながる)  何らかの理由を設けて中央より遠地へ排除→例えば「風土記」作成指導等

安心脱生死大丈夫

「好きな言葉―年の初めに」

安心脱生死大丈夫

ー物事に捉われない自然な心で、生とか死とかも超越して佛の道を行うー

作家新井英生解より

意味はともかくこのような境地に到達できるのはやはり仏道と云うか禅の神髄を極めたものでなければいきつくことができないもの、私どもには到底計り知れない世界、唯、何となく感じるだけと云う事になりますが、この言葉の持つ力強さ、言葉の響き・迫力が何とも心地いい感じで好きな言葉のひとつです。

この言葉どういう状況で使われたのかと云う事は、プレジデント社出版の経済経営雑誌「プレジデント」の古い号の特集記事「仏典のこころを読む」(1991年7月号)の中で作家新井英生が「井伊直弼と正法眼蔵―受身捨身ともに布施―が支えた開国の決断」と云う小文で、紹介しています。

幕末近い江戸末期、彦根藩菩提寺、曹洞宗清涼寺、住職仙英禅師が当時不遇時代を経て彦根藩主となり幕府の要職に就いていた、仏門の弟子でもある井伊直弼より第一回ペリー来航(1853年嘉永5)の問題に関して書状が届いた。

その書状に対し仙英禅師が与えた返信書状の中に説かれていた詞。

直弼は不遇時代、文武両道に励み仏道においては仙英禅師の薫陶を受け三関六転語という禅の公案の難問をすべて解き、印可を受ける程の精神的高みにまで達していたとのこと。

禅師より印可を頂けるほどの域に達していたはずの直弼もやはり国家の一大事、ペリー来航開国要請に際しては判断に些かの迷いが生じたのでしょう。

書状を以て師である仙英禅師に、二度と来航しない様、祈祷してくれないかと懇願しています。

この書状に対する仙英禅師の答えが、「異国船降伏祈願のことは承知しました。が、今まで禅の修業を積んで難問の三関六転語の真理を悟っているはずの、御前(直弼)であれば究極の秘法を収めていると同じ事、「安心脱生死大丈夫」の境地で乗り切れるのでは」と直弼へのエールを送っています。

この言葉を戴いた直弼は一瞬にして気づく処があったようで、迷いを絶ち数ケ月前までの攘夷論を覆し、開国を奏上し国家未曾有の外交的窮状を救い、日本の未来を切り開く結果となったのはその後の歴史で周知のとおり。

その後、直弼はご存じの様に桜田門外で水戸浪士の襲撃を受け(安政7年3月3日・1860年3月24日)一命を落とす事となりましたが、其れは勿論、開国論に踏み切った当時から覚悟の上のことだったようです。

開国奏上を行った2年後一時彦根藩へ戻った直弼は「戒号宗観院暁覚翁大居士」と認めた自筆の書を他の書状と共に側役の三浦何某に預けたとの事、此れは現在も井伊家に桐箱に収められて厳重に封印され保管されているそうです。

其れが所謂、禅の奥義を極め、道元禅師の「正法眼蔵」を熟読していた直弼の最終的な選択。此の小文の副題に掲げられている「受身捨身ともに布施」と云う覚悟、国家安寧の為に一命を賭すと云う想いだったのでしょう。

書状のそのやり取りの部分を引用しますと

(ペリー再来航を苦慮している最中の手紙のやり取りの一部分です)

直弼、仙英禅師への書状「・・・以後異船之渡来無之様祈念致外無之・・大和尚之御了簡以竊御祈祷希上度候云々

・・イゴ、イセンノトライ コレナキヨウ、キネンイタスホカコレナク・・・ダイオショウノゴリョウケンヲモッテ、ヒソカニ、ゴキトウネガイアゲタクソウロウ・・

仙英禅師返状「・・・抑仏道之秘術密法之降伏一切大魔最勝成就申候御前先年御修終被遊三関六転語之外別無御座候凡王道神道佛道武道儒道惣萬億之秘術密法修業申悉皆極中極至候安心脱生死大丈夫外更無之事存候云々

・・ソモソモ、ブツドウ、コレヒジュツミッポウノ、イッサイダイマサイショウ ジョウジュ、トモウシソウロウハ、ゴゼンセンネン、ゴシュウシュウコウムリアソバサレシ、サンセキロクテンゴ ノホカ、ベツニナクゴザソウロウ オホヨソ、オウドウ・シントウ・ブツドウ・ブドウ・ジュドウ、ソウジテ、マンオクノ、ヒジュツミッポウシュギョウトモウスハ、コトゴトク ミナ、ゴクチュウゴクニ、イタリソウロウハ、アンシンダツショウジダイジョウブ ノホカ、サラニ コレナキコトト ゾンジソウロウ・・

私は、この言葉をメモとして使っている日記帳、3冊目の5年ダイアリー(2019―2023)の表紙の内側に書いていましたが、今年からの新しいダイアリー(2024-2028)にも記しておく事といたしました。好きな言葉ですが、その境地に至ることなど端から到底無理な話かもしれません。が然し、この言葉を事あるごとに眺める事で少しは気持ちの整理もつくのではと密かに思い描いています。

NETから

因みに大丈夫とは、間違いない、あぶなげない、非常にしっかりしている様子を意味しています

もともと、大丈夫は人のことを指しています。丈夫、つまり、ますらお、男子をほめていう言葉ですから、偉大な人、りっぱな人、しっかりした人のことをいいました。この言葉が仏教に取り入れられました。

仏法的には 

「仏」を意味する十種の呼び名(仏の十号)の中に、「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」―法華経にもよく出てくる言葉ですーというのがあり、また、『華厳経』に、「もし諸の菩薩この法に安住すれば即ち大丈夫の名号を得ん」とあります。

このような人は、たよりがいがあり、間違いもないところから、いまのように用いられるようになったのですね。しかし、ほんとうの意味で大丈夫なのは、やっぱり仏さまと云う事になりますか。

感じる事

華厳経と云えば、鎌倉時代の華厳宗の高僧明恵上人の言葉「あるべきやう」と云う言葉があります。

また、江戸時代中期の良寛禅師には「災難に逢う時節は災難に逢うが能く、死ぬ時節には死ぬが能く候是は此れ災難を逃るる妙法にて候」と云う言葉があるそうです。

何れも物事に捉われず自然に生きる生き方を示唆した言葉で、此の「安心脱生死大丈夫」と究極として通ずる言葉だと思います。その境地に到達するのは至難の業ではありますが・・・

言葉の意味は

三関六転語

仙英禅師が直弼に与えた禅の公案の六つの問題―「南泉三不是」と「高峰六転語」を授けたもの

中国唐代の高僧南泉が「仏とは心であり、又宇宙に存在するあらゆる物でもある。然し、仏とか心とか物に執着すれば却って言葉に捉われ道を誤る」即ち「不是心・不是佛・不是物」であると説いたのが三不是

高峰六転語とは同じく唐代禅僧高峰禅師が弟子を試すのに「三関」と云われる公案を与えた。転語とは禅師が学人の低迷を打破し修業に飛躍(転機)を促すために与える語のこと、で直弼が禅師から与えられた六転語の前半が三関と云われる公案

内容は

 大撤人元脱生死 依何命根不断

(ダイテツノヒトハ、モトショウジヲダッス ナンニヨツテ、ミョウコンヲタタズ)

☞ 生死を超越したものが何故命を惜しむのか

仏祖公案元一箇道理 依何在明輿不明

(ブッソノコウアンハモトイツコノドウリ ナンニヨリテメイトフメイトアリ)

 ☞ 心理は一つなのにどうしてあれこれ言うのか

 大修業人元可遵佛行 依何不守毘尼

(ダイシュギョウノヒトモトブツギョウニシタガウベシニ ナンニヨツテカダニヲマモラズ) ☞ 仏の道を修めたものが何故色香に迷うのか

 杲日当空無所不照 依何被遮却片雲

(コウジツソラニアレバマサニテラサヌトコロナシ ナニニヨツテカヘンウンニサエギラル ☞ 晴天白日が何故一片の雲に遮られるのか

 人々有箇影子 依何蹈不着

(ヒトビトニコノエイシアリ ナニニヨツテカフミツカズ)

 ☞ 人はどうして自分の影を踏むことが出来ないのか

 尽大地這箇火坑 得什什麼三昧不被焼却

(コトゴトクダイチシャコカコウジュウマザンマイヲエテショウキャクサレズ

 ☞火の海の中で如何すれば焼かれずに済むか

※訳は作家新井英生解

因みに直弼の解答は残っていないそうですが其れに添えられた道歌が残っているとの事です。其れは、

大撤人 ☞ わたつみの底には淵も瀬もなくて水のみなかみ常に絶えせず

仏祖公案☞ 池の面におもはず映る影なれば澄むも濁るも月の咎かは 

大修業人☞ 峰の花見つつぞ登る一道は枝折のあとも何にかはせん

杲日当空☞ あやにくに猶むら雲のかかれるはあきらけき日のあればなりけり

人々有 ☞ はかなくも身にそふものと思ふ哉おもひすつればかげもとまらず

尽大地 ☞ 天地も身もはやともに燃えぬるをいまさら何かやかれしもする

と云うものだそうです。

解説には「どの歌も直弼の思考は全く自由無碍、心も又道元が教えるように、何物にもとらわれることなく、在るが儘の当に無我の境地であることが肯ける」とあります。

常人にはやはり計り知れない世界に思え、ただその輪郭がなんとなくぼんやりと見えるかなとおもうくらいですね。