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松尾芭蕉句集からⅣ

芭蕉句作の変遷

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回は4回目です。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。

笈の小文&更科紀行

芭蕉は再び東海・近畿の旅に立つ。

貞享四年十月に江戸を発ち翌五年四月須磨・明石に至る迄の「笈の小文」の旅

帰路、木曽路を経てその八月末江戸に戻るまでの「更科紀行」の旅

文学的にも人間的にもなお模索中の不安を懐いて出発した野ざらしの旅とは違って、芭蕉は既に俳諧という究極的によって立つべき芸術哲学を胸中に確立し、俳諧的表現のあるべき姿についても十分煎じ詰めて確信を持てる理念に達している。

旅中作は、総じて江戸の二年半に築き上げた唯美的風潮に立っている。その意味で是は貞享ぶりの一環とみるべき・・

「造化に随い造化に帰れ」(笈の小文):元禄三年(1690)ごろの執筆か

☞大自然随順の精神であるがこの信条の骨格は貞享期の思索の中ですでに十分確立されていたとみてよい。

【芭蕉句例】本文320~472蕃収 後期3

  旅人とわが名呼ばれん初時雨   (320) タビビトト ワガナヨバレン ハツシグレ

  何の木の花とは知らず匂ひかな  (364)  ワンノキノ ハナトハシラズ ニオヒカナ

  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅   (380)  ハルノヨヤ コモリドユカシ ドウノスミ

  雲雀より空にやすらふ峠哉    (381)  ヒバリヨリ ソラニヤヅラウ トウゲカナ

  花の陰謡に似たる旅寝哉     (384)  ハナノカゲ ウタヒニニタル タビネカナ

  ほろほろと山吹散るか滝の音   (387)  ホロホロト ヤマブキチルカ タキノオト

  草臥れて宿借るころや藤の花   (400)  クタビレテ ヤドカルコロヤ フジノハナ

  蛸壺やはかなき夢を夏の月    (410)  タコツボヤ ハカナキユウメヲ ナツノツキ

  おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 (431)  オモシロウテ ヤガテカナシキ フブネカナ

  俤や姨ひとり泣く月の友     (452)  オモカゲヤ ヲバヒトリナク ツキノトモ

  吹き飛ばす石は浅間の野分哉   (457)  フキトバス イシハアサマノ ノワキカナ

こうした佳句になると、夫々に含蓄するものの深さに於いて、形象化の完熟度の高さに於いて、貞享中期の句境をしのぐものがある。

おくのほそ道~猿蓑    (初期かるみの句調-)

「おくのほそ道」の旅は元禄二年(1689)三月末に江戸を発ち四月二十日に白川の関を越え、道々歌枕を訪ね乍ら仙台・松嶋・平泉を限りに奥羽山脈を横切って五月半ば出羽に入り尾花沢・大石田・出羽三山・酒田と日を重ねて、象潟を北限として北陸道を南下し、加賀金沢で初秋を迎え越前敦賀で仲秋の名月に会い、八月下旬ごろ美濃大垣に至る迄、行程六百余里、丸五か月に及ぶ長途の旅となった。

この旅の芭蕉に与えたものは頗る大きかった。

「昔より詠み置ける歌枕、多く語り伝ふと雖も、山崩れ、川流れて、道革まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に変れば、時移り代変じてその跡確かならぬ事のみをここ〈壺の碑〉に至りて疑ひなる千歳の記念カタミ、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の疲れも忘れて涙もお鶴ばかり也」おくのほそ道「壺の碑」章

芭蕉は其処に悠久なるものと変化流転するものとの交錯する自然と人生の相を観じ、此れが自己の芸術にも共通する所の多い事に目覚める。そして重要な事は、ここから詩の真実

と云うものをこれ迄より遥かに高い次元に立って高所から捉え直した芸術観、即ち「不易流行」の思想に到達し、所謂貞享ぶりを脱皮して俳諧に新たな転生の道を切り開くに至ったのである。

  • 不易流行の思想→芸術作品に永遠(不易)の生命を与えるものは飽く迄深く自然や人生の実相に迫ろうとする眞實探求の精神(風雅の誠)によって掘り起こされた詩的真実であるとする一方、眞實探求の精神が本物であればあるほど、物を見る目も、その表現方法も、何時までも同じ状態に止まっていられる筈が無く、自ずから新しい境地に向かって一歩を進め変化流行してゆかざるを得ず、而もその様に変化流行して新しい真実を求めていく自覚的なプロセスにおいてのみ鮮烈な生命が作品の内部に躍動して来る。とする芸術館観である。

不易と流行は同じ「風雅の誠」の両面に他ならない。

「千変万化するものは自然の理也」三冊子

作品の永遠不易性を保証する為には常に流行が求められなければならない。

この考え方の原質は「荘子」の宇宙哲学に見られるものだが、芭蕉は其れを自己の文学体験、直接的には奥羽行脚の体験と思索の中で市の本質論として発酵させた。

「当時(現在)の俳諧は梨子地の器の高蒔絵書きたるが如し、丁寧、美尽くせりと雖も、漸く是に飽く。予が門人は桐の器を柿合せ(柿渋塗の器)に塗り足らんが如く、ざんぐりと荒びて句作すべし」(芭蕉言―不玉宛去来書簡)

芭蕉は新意の「かるみ」の在り方を探る中で必然的に詩材の問題に突き当たり、観念的虚構の世界を離れたもっと実のあるもの、事実に根差しを持つものの中に真実の詩を求め始める芭蕉文学の詩材は此処に於いて、唯美主義時代の反俗的・古典主義的・虚構的なものへの志向から、日常生活的・現実的・写実的なものへとその流れを大きく変え始める

芭蕉は「奥の細道」の旅を境目としてその俳諧の文学的傾向を大きき転換させた。端的に言えばそれは観念的理想主義から経験的現実主義への転換ともいうべき本質的な転換だったのであり、芭蕉自身に於いてもこの方向を掴んだ時、初めて真の意味における文学の在り様が目に見えてきたのであろうか、これ以後は殆ど迷うことなく、死に至る迄只管「かるみ」の唱導を繰り返しつつ、その境地を極限まで深めていくことになるのである。

【芭蕉句例】本文473~751蕃収録 完成期

 草の戸も住み替る代ぞ雛の家    (483)   クサノトモ スミカハルヨゾ ヒナノイヘ

  行く春や鳥啼き魚の目は涙     (485)  ユクハルヤ トリナキウヲノ メハナミダ

  木啄も庵は破らず夏木立      (495) キツツキモ イホハヤブラズ ナツコダチ

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな    (503) タイチマイ ウエテタチサル ヤナギカラ

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺    (509) サナエトル テモトヤムカシ シノブズリ

  桜より松は二木を三月越し     (511) サクラヨリ マツハフタキヲ ミツキゴシ

  島々や千々に砕きて夏の海     (514) シマジマヤ チジニクダキテ ナツノウミ

五月雨の降り残してや光堂     (516)   サミダレノ フリノコシテシテヤ ヒカリドウ

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声    (522)  シズカサヤ イワニシミイル セミノコエ

  五月雨を集めて早し最上川     (523) サミダレヲ アツメテハヤシ モガミガワ

  雲の峰幾つ崩れて月の山      (528)  クモノミネ イクツクズレテ ツキノヤマ

  荒海や佐渡に横たふ天の川     (540)  アラウミヤ サドニヨコタフ アマノガワ

  国々の八景さらに気比の月     (568)  クニグニノ ハツケイサラニ ケヒノツキ

  初時雨猿も小蓑を欲しげなり    (594)  ハツシグレ サルモコミノヲ ホシゲナリ

 木のもとに汁も膾も桜かな     (615)   キノモトニ シルモナマスモ サクラカナ

 川風や薄柿着たる夕涼み      (639)  カワカゼヤ ウスガキキタル ユウスズミ

  月見する座に美しき顔もなし    (649)  ツキミスル ザニウツクシキ カオモナシ

  桐の木に鶉鳴くなる塀の内     (651)  キリノキニ ウズラナクナリ ヘイノウチ

  しぐぐるや田の新株の黒むほど   (659) シグルルヤ タノアラカブノ クロムホド

  乾鮭も空也の痩も寒の中      (670)  カラザケモ クウヤノヤセモ カンノウチ

  山里や万歳遅し梅の花       (683) ヤマザトハ バンザイオソシ ウメノハナ

  月待や梅かたげ行く小山伏     (684) ツキマチヤ ウメカタゲユク コヤマブシ

松尾芭蕉句集からⅢ

芭蕉句作の変遷

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回は3回目です。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。
  • 荘子哲学と禅の思想的影響

芭蕉に於ける荘子の影響は絶大であった。これからの芭蕉は世俗的な価値観の束縛をかなぐり捨て、一切の功利主義的なものと絶縁し隠者の境涯に徹し、一筋に純粋に、文学の真実を求める事だけに生涯を捧げる事に成るのである。

古典と古人の魂に直結し、更に是に現実体験の中から掴んだ実感・感受性が相乗されて精神価値への上昇志向が高まってくると、言葉や観念の知的遊戯、古典の詩句のもじり趣味等、最早無意味なものに帰するのも必然であろう。そんな中で芭蕉は時流に先んじて本歌本説取りからの脱皮を志し、まともな感受をストレートに表現する方法を探り始める。

芭蕉は延宝末年(1680)の人間的煩悶の中で己の弱さに悩み「学んで愚を悟らん」笈の小文)として佛頂禅師について参禅修学をして来た。芭蕉の文学のあるものに禅機が感じられるのは此処に由来するものであろう。

【哲学影響下の芭蕉句例】

  ばせを植ゑてまづ憎む荻の二葉哉 (141)   バセヲウエテ マヅニクムオギノ フタバカナ

 五月雨に鶴の足短くなれり    (143)   サミダレニ ツルノアシ ミジカクナレリ

 氷苦く偃鼠が喉をうるほせり   (150)   コオリニガク エンソガノドヲ ウルホセリ

  鶯を魂にねむるか嬌柳      (163)   ウグイスヲ タマニネムルカ タヲヤナギ

 霰聞くやこの身はもとの古柏   (170)   アラレキクヤ コノミハモトノ フルカシワ

 蝶よ蝶よ唐土の俳諧問はん    (173)   チョウヨチョウヨ モロコシノハイカイ トハン

実感の表出を妨げる寓言的非論理も次第に影を潜め知巧を洗い流した正常な文体の中で自己の感受を表出する道に到達する。

これ等の中には最早知巧の陰はない。沈静した文体の中に心が通っている。是がこの模索期の中で芭蕉の探り当てた新俳諧の最初の典型的な姿だった。

野ざらし紀行☞模索2:貞享期1684-1687(41歳~44歳)前半

貞享元年(1684)芭蕉ははじめての文学行脚に旅立つ。貞享元年8月~貞享2年4月

此の旅は延宝8年(1680)-37歳-以来深川の草庵にあって、人間的にも文学的にも真剣な思案を重ねた末に漸く目に見えて来た文学的新境地を、日々新たに繰り広げられる新鮮な経験の中で実践するに格好の場となった。

「千里に旅立ちて路粮を包まず。三更月下無何に入る、と言ひけん昔の人の杖にすがりて貞享甲子秋八月、江上の破屋を出づるほど、風の声そぞろ寒げなり」野ざらし紀行冒頭

☆ 千里に旅立ちて→荘子「逍遥遊篇」千里ニ適ユク者ハ三月糧を聚アツム

☆ 路粮ロカテを→中国禅僧詩集「江湖風月集」の詩句:路粮ヲツツマズ笑ヒテ復歌フ、三更月下無何ニ入ル 広聞和尚

☆ 無何→荘子「逍遥遊篇」無何有之郷:有無を超越し一切の執着を離れ切った人間精神の理想郷を表す

【芭蕉句例】本文190­~258蕃収録 後期1

  野ざらしを心に風のしむ身哉   (190)   ノザラシヲ ココロニカゼノ シムミカナ

猿を聞く人捨子に秋の風いかに  (194)   サルヲキク ヒトステゴノアキノ カゼイカニ

  道の辺の木槿は馬に喰はれけり  (195)   ミチノベノ モクゲハウマニ クハレケリ

晦日月なし千歳の杉を抱く嵐   (197)   ミソカツキナシ チトセノスギヲ ダクアラシ

手に取らば消えん涙熱き秋の霜  (201)   テニトラバ キエンナミダ アツキアキノシモ

  僧朝顔幾死に返る法の松     (203)   ソウアサガオ イクシニカヘル ノリノマツ  

砧打ちて我に聞かせよや坊が妻  (205)   キヌタウチテ ワレニキカセヨヤ ボウガツマ

秋風や藪も畠も不破の関     (210)   アキカゼヤ ヤブモハタケモ フワノセキ

  狂句木枯の身は竹斎に似たる哉  (223)   キョウクコガラシノ ミハチクサイニ ニタルカナ

  草枕犬も時雨るるか夜の声    (224)   クサマクラ イヌモシグルルカ ヨルノコエ

海暮れて鴨の声ほのかに白し   (227)   ウミクレテ カモノコエ ホノカニシロシ

  春なれや名も無き山の朝霞    (232)   ハルナレヤ ノモナキヤマノ アサガスミ

水取りや氷の僧の沓の音     (233)   ストリヤ コオリノソウノ クツノオト

世に匂へ梅花一枝のみそさざい  (235)   ヨニニホヘ バイカイッシノ ミソサザイ

山路来て何やらゆかし菫草    (239)   ヤマジキテ ナニヤラユカシ スミレグサ

いざともに穂麦喰はん草枕    (250)   イザトモニ ホムギクラハン クサマクラ

直門の許六が後年「道の辺」の句を持って「談林を見破り正風体を見届け」た最初の作として称揚している(歴代滑稽伝)

☆ 正風体とは宗因風の寓言的無心所着体と正反対の、和歌連歌的な温雅な文体を指す用語

野ざらしの旅中作のほとんどは既に正風体に帰している。

この様にして芭蕉は旅中の實作を通して寓言の宗因風とも晦渋な天和風ともほぼ完全決別し、正風体の中に新たな俳諧の方向性を見出すに至った。

貞享期(超俗唯美の句境)☞模索31684-1687(41歳~44歳)後半

野ざらしの旅を終へた後、貞享四年十月再び近畿の旅に赴くまでの約二年半、即ち貞享中期の芭蕉は、野ざらしの旅で得た句境に更に磨きをかけその芸術的深化を求めて思索と実践を繰り返す。

貞享三年(1686年)正月芭蕉江戸門下による百韻連句→「丙寅初懐紙」巻頭八句

日の春をさすがに鶴の歩み哉    其角    ヒノハルヲ サスガニツルノ アユミカナ

    砌に高き去年の桐の実     文鱗    ミギリノタカキ コゾノキリノミ

  雪村が柳見にゆく棹さして     枳風   セツソンガ ヤナギミニユク サオサシテ

    酒の幌に入相之月       コ斎    サケノトバリニ イリアイノツキ

  秋の山千束の弓の鳥売らん     芳重    アキノヤマ チソクノユミノ トリウラン

    炭竈こねて冬のこしらへ    杉風    スミガマコネテ フユノコシラヘ

  里々の麦ほのかなる群緑      仙化   サトサトノ ムギホノカナル ムラミドリ

    わが乗る駒に雨覆ひせよ    李下    ワガノルコマニ アマオホヒセヨ

茲では天和の生硬な漢詩文調や晦渋さは最早全く影を潜め、温雅な文体に託された、美的なるもの、超俗的な詩境へのひたすらな志向があるばかりである。そうした謂わば唯美主義的な風がこの頃の芭蕉と蕉門の芸境として定着していたのである。

ものを見る目の新しさ、自然や人生に内在する未開拓の新しい洞察と言った方向に焦点が集中されるに至っている。それは芭蕉俳諧が本格的な芸術の段階に入った事を明確に示すものである。→「新しみ

【芭蕉句例】本文259~319蕃収録 後期2

幾霜に心ばせをの松飾り      (261)   イクソモニ ココロバセヲノ マツカザリ

よく見れば薺花咲く垣根かな    (263)   ヨクミレバ ナズナハナサク カキネカナ

  古池や蛙飛びこむ水の音    (270)   フルイケヤ 蛙トビコム ミズノオト

鸛の巣に嵐の外の桜哉       (293)   コウノスニ アラシノホカノ サクラカナ

  花の雲鐘は上野か浅草か    (294)   ハナノクモ カネハウエノカ アサクサカ

      〈物皆自得〉

  花みな枯れてあはれをこぼす草の種 (276)  ハナミナカレテアハレヲコボス クサノタネ

花に遊ぶ虻な喰ひそ友雀      (291)   ハナニアソブ アブナクラヒソ トモスズメ

永き日も囀り足らぬひばり哉    (295)   ナガキヒモ サエズリタラヌ ヒバリカナ

原中やものにもつかず啼く雲雀   (296)  ハラナカヤ モノニモツカズ ナクヒバリ

ほととぎす鳴く鳴く飛ぶぞ忙はし  (298)   ホトトギス ナクナクトブゾ イソガハシ

起きあがる菊ほのかなり水のあと  (318)   オキアガル キクホノカナリ ミズノアト

痩せながらわりなき菊乃蕾哉    (319)   ヤセナガラ ワルナキキクノ ツボミカナ

  • 物皆自得とは荘子哲学の自然観を象徴する語で、万物は皆夫々の本然ノ天性に随い、その分に安んじて楽しんで生きているとの意。

その背景は天地の間に或る森羅万象の一切を宇宙の根源的な「道」―大自然の理法―の自ずからなる顕れと観、従って人間も美しい花も鳥も、醜い虫けらも路傍の雑草や石ころも、この「道」の前では一切が平等の価値を有し万物は其々に道即ち大自然の真理を内に宿しているとする荘子の哲学の最も根本的な哲理に支えられている。

つづき

松尾芭蕉句集からⅠ

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋1982年(S57)6/10初版

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付しています。

はじめにー総括】 

芭蕉俳句詠吟期間☞寛文二年(1662)19歳―元禄七年(1694)51歳 約30年間

門人服部土芳著「三冊子」

「それ、俳諧といふことはじまりて、代々利口のみに戯れ先達つひに誠を知らず。中頃難波の梅翁(西山宗因)自由をふるひて世上に広と雖も、中分(中程度)以下に して、未だ詞をもってかしこき名なり。然るに亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧初めて実を得たり。師の俳諧は名は昔の名にて、昔の俳諧に非ず。誠の俳 諧なり。・・・ わが師は誠無きもの(俳諧)に誠を備へ、永く世の先達となる。眞に代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得る事、天、當にこの人の腸(ハラワタ)を待てるや。師は如何なる人ぞ」

芭蕉俳諧を歴史的に端的に位置づけたものとして蓋し古今の名言。

  • 利口→弁舌巧みに、おどけしゃれを云う:室町期より俳諧は連句の余興として滑稽文学と認識されていた。
  • 俳諧の誠→風雅の誠:自然や人生の実相に深く迫ろうとする純粋至高の詩精神

【詠吟三十余年】宗房―桃青-芭蕉

寛文二年(1662)19歳 生地伊賀上野にて 

春や来し年や行きけん小晦日(1-12月29日立春―初句) 

 元禄七年(1694)51歳  

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(922-十月四日病中吟)

清滝や波に散り込む青松葉  (875―十月九日死の三日前)

俳諧が江戸期を迎えて一大発展期に入ってからも何の疑いも無く踏襲される。具体的に言えば寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀にわたって全国の俳調を支配した貞門風、延宝(1672~80)元年前後から約10年の全盛期を誇った宗因風所謂談林もその風潮には多少の曲折はあるものの、基本的には室町俳諧の延長という点で一貫した体質を持っていた。

【芭蕉句吟の流れ】

芭蕉も亦、はじめは此の大きな潮流に揉まれざるを得なかったのである。というよりも若き日の芭蕉は寧ろこの滑稽專一の文学に異常な情熱を燃やしこの道を選んだ。郷里の(伊賀上野)少年時代、寛文元年(1661・芭蕉18歳)前後から当時流行の貞門風を学び、情熱の赴く処、寛文12年(1673)29歳で俳諧宗匠を志して江戸に出てから延宝(1673-1680)の末迄は、貞門に変わって新たな流行勢力となった宗因風に心酔しつつ宗匠の地位を確立し、一派を築く等自ら積極的に滑稽の時流に掉差した。その間ほぼ20年、土芳も云う通り芭蕉の俳諧人生は三十余年に及ぶが其三分の二を占める年月を、芭蕉も亦「利口」の俳諧に費やしていたわけで、図式的に言えば「誠の俳諧」の創造に費やした時間は最後の十年間に過ぎなかったという事にもなる。

【芭蕉俳諧の精神的支柱】哲学・思想

中国古典「荘子」は宗因風の理論的裏付けとされた「寓言」を通して当時一般の俳人に広く親しまれ、和漢の古典の詩歌文章は本歌本説取りの材料として、これまた俳人必須の教養とされていたから、芭蕉だけが特殊な本を読んだと言う訳ではない。只、大多数の人々にとっては其れが本歌本説取りの為の単なる知識の対象でしかなかったのに対して、芭蕉がひとりその奥に流れる思想・精神の根源に魂の触手で直に触れることが出来た処に、天地霄壌ショウジョウの大きな違いがあった。そして、時代の平均的な享受の態度とは異質のこの対応の仕方にこそ、芭蕉の持って生まれた独特の個性の光があった。

→「百骸九竅ヒャクガイキュウキョウの中に物あり、仮に名付けて風羅坊といふ。眞に羅ウスモノの風に破れやすからんことをいふにやあらん」(笈の小文)―言うなればそれは肉体の底から己を衝き動かす、強烈にして而も鋭敏繊細な感受性であった。

  • 寓言→中国古代の哲学者荘周の著「荘子」の文章の特異さを示す言葉として古来より有

「荘子は寓言とて無き事をあるやうに書きたる道人」浮世物語―浅井了意

「荘子が寓言、俳諧の根本なり」宗因門 惟中の言葉

「富士の煙に茶釜を仕掛け、湖を手盥に見立て目の覚めたる作意」井原西鶴の言葉

【芭蕉俳諧完成への三段階

芭蕉が模索の数年を乗り越えて「誠の俳諧」に第一歩を踏み出すのは、貞享元年(1684)四十一歳の「野ざらし紀行」の旅からである。「誠の俳諧」としての純粋詩基本的性格はこの時定まった。然し其れは飽く迄第一歩に過ぎなかった。土芳は「(誠)を責むる者はその地(同じ場所)に足を据え難く、一歩自然に歩む理也」(三冊子)と言ったが是は取りも直さず芭蕉の精神に他ならなかった。「誠」は固定した形ではなく「責める」事によって無限に深化するという自覚―芭蕉はこの自覚の下に言葉の芸術としての俳諧の所在アラユル可能性を探ることに、残る十年間の人生のすべてを賭ける事に成る。

大局的観点から見れば、①超俗的な唯美主義へと飛翔する貞享期から、奥の細道の旅を経た後、唯美主義に纏わる弊を超克して現実なるものへの回帰を志す所謂「猿蓑」期に於ける初期「かるみ」への展開、更にこの風調を徹底深化させつつ世俗の卑近な庶民生活の哀歓の中に実人生の真理をを求め、是を日常の平淡な言葉の中に捉え尽くす事によって庶民詩としての俳諧を完成の域まで高めた、最晩年の「かるみ」の風へと、ほぼ三段階の発展を遂げる事に成る。

以下、俳諧の歴史的流れとそれに伴う芭蕉の句吟の変化を俯瞰

貞門風- 松永貞徳(京都)

※ 寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀

「俳諧は俳言をもって賦する連歌」☞俳言:優美を理想とする伝統和歌や連歌では用いられない俗語や漢語のこと。

室町滑稽手法の内、非論理的・反常識の意外による笑い或いは卑猥・不道徳的なものによる笑いを否定:「貞徳老人の俳諧はやさしさを体とし、をかしきを用とす」(玉くしげ)

貞門風作調手本例-「毛吹草-重頼著」政保二年(1645年)発刊

 1)皆人の昼寝の種や秋の月 (心の發句) ミナヒトノ ヒルネノタネヤ アキノツキ

 2)川岸の洞は蛍の瓦灯かな (見立て)  カワギシノ ホラハホタルノ ガトウカナ

 3)雨露は木々のいろはの師匠か(言ひ立て) アマツユハ キギノイロハノ シショウカナ

 4)恙なく咲くや卯木の穴かし(秀句)   ツツガナク サクヤウツギノ アナカシコ

 5)いろいろに変ずる花はつばけかな(五音相通) イロイロニ ヘンズルハナハ ツバケカナ

 6)実も入らで竹にすがるやがきささげ (清濁ミモイラヌ タケニスガルヤ ガキササゲ

 7)猫足の膳で食はばや鼠茸  (対物)ネコアシノ ゼンデクハバヤ ネズミタケ

 8)蚊食ふばかり寝がたく見ゆる夜中かな (本歌の俤) カクウバカリ ナガタクミユル ヨナカカナ

 9)折らずんば空し宝の山桜 (世話)   オラズンバ ムナシタカラノ ヤマザクラ

10) ほととぎはまだ巣籠りか声もな(なぞ)  ホトトギハ マダスゴモリカ コエモナシ

これ等は同作法書に、俳諧発句の望ましい姿として掲げられているもので、( )内の語は重頼によって分類された表現手法の名目である。

「毛吹草」はほかにも多くの名目を示すが、基本的には上記手法と大同小異で、貞門の言語遊戯は一般的傾向として凡そ以上のようなものだったとみてよい。中でも見立てと、縁語・掛詞の機知による滑稽が主流をなした。又俳諧が単なるばさらごと(戯れ事)でない証として古典の知識をふまえた作品が推奨され、此れが俳諧を嗜む人の教養を向上させ、伝統の浅い俳諧の文学的地位を権威あるものに高める基にもなった。

【貞門風芭蕉句例】(本文1~53番収録)初期

 岩躑躅染むる涙やほととぎ朱  (11)  イワツツジ ソムルナミダヤ ホトトギシュ

  あち東風や面々さばき柳髪   (26)  アチコチヤ メンメンサバキ ヤナギガミ

  うかれける人や初瀬の山桜   (31)  ウカレケル ヒトヤハツセノ ヤマザクラ

  文ならぬいろはもかきて火中哉 (47)  フミナラヌ イロハモカキテ カチュウカナ

  見る影やまだ片なりも宵月夜  (53)  ミルカゲヤ マダカタナリモ ヨイツキヨ

つづく