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松尾芭蕉句集からⅠ

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋1982年(S57)6/10初版

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付しています。

はじめにー総括】 

芭蕉俳句詠吟期間☞寛文二年(1662)19歳―元禄七年(1694)51歳 約30年間

門人服部土芳著「三冊子」

「それ、俳諧といふことはじまりて、代々利口のみに戯れ先達つひに誠を知らず。中頃難波の梅翁(西山宗因)自由をふるひて世上に広と雖も、中分(中程度)以下に して、未だ詞をもってかしこき名なり。然るに亡師芭蕉翁、この道に出でて三十余年、俳諧初めて実を得たり。師の俳諧は名は昔の名にて、昔の俳諧に非ず。誠の俳 諧なり。・・・ わが師は誠無きもの(俳諧)に誠を備へ、永く世の先達となる。眞に代々久しく過ぎて、このとき俳諧に誠を得る事、天、當にこの人の腸(ハラワタ)を待てるや。師は如何なる人ぞ」

芭蕉俳諧を歴史的に端的に位置づけたものとして蓋し古今の名言。

  • 利口→弁舌巧みに、おどけしゃれを云う:室町期より俳諧は連句の余興として滑稽文学と認識されていた。
  • 俳諧の誠→風雅の誠:自然や人生の実相に深く迫ろうとする純粋至高の詩精神

【詠吟三十余年】宗房―桃青-芭蕉

寛文二年(1662)19歳 生地伊賀上野にて 

春や来し年や行きけん小晦日(1-12月29日立春―初句) 

 元禄七年(1694)51歳  

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(922-十月四日病中吟)

清滝や波に散り込む青松葉  (875―十月九日死の三日前)

俳諧が江戸期を迎えて一大発展期に入ってからも何の疑いも無く踏襲される。具体的に言えば寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀にわたって全国の俳調を支配した貞門風、延宝(1672~80)元年前後から約10年の全盛期を誇った宗因風所謂談林もその風潮には多少の曲折はあるものの、基本的には室町俳諧の延長という点で一貫した体質を持っていた。

【芭蕉句吟の流れ】

芭蕉も亦、はじめは此の大きな潮流に揉まれざるを得なかったのである。というよりも若き日の芭蕉は寧ろこの滑稽專一の文学に異常な情熱を燃やしこの道を選んだ。郷里の(伊賀上野)少年時代、寛文元年(1661・芭蕉18歳)前後から当時流行の貞門風を学び、情熱の赴く処、寛文12年(1673)29歳で俳諧宗匠を志して江戸に出てから延宝(1673-1680)の末迄は、貞門に変わって新たな流行勢力となった宗因風に心酔しつつ宗匠の地位を確立し、一派を築く等自ら積極的に滑稽の時流に掉差した。その間ほぼ20年、土芳も云う通り芭蕉の俳諧人生は三十余年に及ぶが其三分の二を占める年月を、芭蕉も亦「利口」の俳諧に費やしていたわけで、図式的に言えば「誠の俳諧」の創造に費やした時間は最後の十年間に過ぎなかったという事にもなる。

【芭蕉俳諧の精神的支柱】哲学・思想

中国古典「荘子」は宗因風の理論的裏付けとされた「寓言」を通して当時一般の俳人に広く親しまれ、和漢の古典の詩歌文章は本歌本説取りの材料として、これまた俳人必須の教養とされていたから、芭蕉だけが特殊な本を読んだと言う訳ではない。只、大多数の人々にとっては其れが本歌本説取りの為の単なる知識の対象でしかなかったのに対して、芭蕉がひとりその奥に流れる思想・精神の根源に魂の触手で直に触れることが出来た処に、天地霄壌ショウジョウの大きな違いがあった。そして、時代の平均的な享受の態度とは異質のこの対応の仕方にこそ、芭蕉の持って生まれた独特の個性の光があった。

→「百骸九竅ヒャクガイキュウキョウの中に物あり、仮に名付けて風羅坊といふ。眞に羅ウスモノの風に破れやすからんことをいふにやあらん」(笈の小文)―言うなればそれは肉体の底から己を衝き動かす、強烈にして而も鋭敏繊細な感受性であった。

  • 寓言→中国古代の哲学者荘周の著「荘子」の文章の特異さを示す言葉として古来より有

「荘子は寓言とて無き事をあるやうに書きたる道人」浮世物語―浅井了意

「荘子が寓言、俳諧の根本なり」宗因門 惟中の言葉

「富士の煙に茶釜を仕掛け、湖を手盥に見立て目の覚めたる作意」井原西鶴の言葉

【芭蕉俳諧完成への三段階

芭蕉が模索の数年を乗り越えて「誠の俳諧」に第一歩を踏み出すのは、貞享元年(1684)四十一歳の「野ざらし紀行」の旅からである。「誠の俳諧」としての純粋詩基本的性格はこの時定まった。然し其れは飽く迄第一歩に過ぎなかった。土芳は「(誠)を責むる者はその地(同じ場所)に足を据え難く、一歩自然に歩む理也」(三冊子)と言ったが是は取りも直さず芭蕉の精神に他ならなかった。「誠」は固定した形ではなく「責める」事によって無限に深化するという自覚―芭蕉はこの自覚の下に言葉の芸術としての俳諧の所在アラユル可能性を探ることに、残る十年間の人生のすべてを賭ける事に成る。

大局的観点から見れば、①超俗的な唯美主義へと飛翔する貞享期から、奥の細道の旅を経た後、唯美主義に纏わる弊を超克して現実なるものへの回帰を志す所謂「猿蓑」期に於ける初期「かるみ」への展開、更にこの風調を徹底深化させつつ世俗の卑近な庶民生活の哀歓の中に実人生の真理をを求め、是を日常の平淡な言葉の中に捉え尽くす事によって庶民詩としての俳諧を完成の域まで高めた、最晩年の「かるみ」の風へと、ほぼ三段階の発展を遂げる事に成る。

以下、俳諧の歴史的流れとそれに伴う芭蕉の句吟の変化を俯瞰

貞門風- 松永貞徳(京都)

※ 寛永(1624~1643)の初め頃から半世紀

「俳諧は俳言をもって賦する連歌」☞俳言:優美を理想とする伝統和歌や連歌では用いられない俗語や漢語のこと。

室町滑稽手法の内、非論理的・反常識の意外による笑い或いは卑猥・不道徳的なものによる笑いを否定:「貞徳老人の俳諧はやさしさを体とし、をかしきを用とす」(玉くしげ)

貞門風作調手本例-「毛吹草-重頼著」政保二年(1645年)発刊

 1)皆人の昼寝の種や秋の月 (心の發句) ミナヒトノ ヒルネノタネヤ アキノツキ

 2)川岸の洞は蛍の瓦灯かな (見立て)  カワギシノ ホラハホタルノ ガトウカナ

 3)雨露は木々のいろはの師匠か(言ひ立て) アマツユハ キギノイロハノ シショウカナ

 4)恙なく咲くや卯木の穴かし(秀句)   ツツガナク サクヤウツギノ アナカシコ

 5)いろいろに変ずる花はつばけかな(五音相通) イロイロニ ヘンズルハナハ ツバケカナ

 6)実も入らで竹にすがるやがきささげ (清濁ミモイラヌ タケニスガルヤ ガキササゲ

 7)猫足の膳で食はばや鼠茸  (対物)ネコアシノ ゼンデクハバヤ ネズミタケ

 8)蚊食ふばかり寝がたく見ゆる夜中かな (本歌の俤) カクウバカリ ナガタクミユル ヨナカカナ

 9)折らずんば空し宝の山桜 (世話)   オラズンバ ムナシタカラノ ヤマザクラ

10) ほととぎはまだ巣籠りか声もな(なぞ)  ホトトギハ マダスゴモリカ コエモナシ

これ等は同作法書に、俳諧発句の望ましい姿として掲げられているもので、( )内の語は重頼によって分類された表現手法の名目である。

「毛吹草」はほかにも多くの名目を示すが、基本的には上記手法と大同小異で、貞門の言語遊戯は一般的傾向として凡そ以上のようなものだったとみてよい。中でも見立てと、縁語・掛詞の機知による滑稽が主流をなした。又俳諧が単なるばさらごと(戯れ事)でない証として古典の知識をふまえた作品が推奨され、此れが俳諧を嗜む人の教養を向上させ、伝統の浅い俳諧の文学的地位を権威あるものに高める基にもなった。

【貞門風芭蕉句例】(本文1~53番収録)初期

 岩躑躅染むる涙やほととぎ朱  (11)  イワツツジ ソムルナミダヤ ホトトギシュ

  あち東風や面々さばき柳髪   (26)  アチコチヤ メンメンサバキ ヤナギガミ

  うかれける人や初瀬の山桜   (31)  ウカレケル ヒトヤハツセノ ヤマザクラ

  文ならぬいろはもかきて火中哉 (47)  フミナラヌ イロハモカキテ カチュウカナ

  見る影やまだ片なりも宵月夜  (53)  ミルカゲヤ マダカタナリモ ヨイツキヨ

つづく