松尾芭蕉句集からⅣ

芭蕉句作の変遷

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回は4回目です。

  • 文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。

笈の小文&更科紀行

芭蕉は再び東海・近畿の旅に立つ。

貞享四年十月に江戸を発ち翌五年四月須磨・明石に至る迄の「笈の小文」の旅

帰路、木曽路を経てその八月末江戸に戻るまでの「更科紀行」の旅

文学的にも人間的にもなお模索中の不安を懐いて出発した野ざらしの旅とは違って、芭蕉は既に俳諧という究極的によって立つべき芸術哲学を胸中に確立し、俳諧的表現のあるべき姿についても十分煎じ詰めて確信を持てる理念に達している。

旅中作は、総じて江戸の二年半に築き上げた唯美的風潮に立っている。その意味で是は貞享ぶりの一環とみるべき・・

「造化に随い造化に帰れ」(笈の小文):元禄三年(1690)ごろの執筆か

☞大自然随順の精神であるがこの信条の骨格は貞享期の思索の中ですでに十分確立されていたとみてよい。

【芭蕉句例】本文320~472蕃収 後期3

  旅人とわが名呼ばれん初時雨   (320) タビビトト ワガナヨバレン ハツシグレ

  何の木の花とは知らず匂ひかな  (364)  ワンノキノ ハナトハシラズ ニオヒカナ

  春の夜や籠り人ゆかし堂の隅   (380)  ハルノヨヤ コモリドユカシ ドウノスミ

  雲雀より空にやすらふ峠哉    (381)  ヒバリヨリ ソラニヤヅラウ トウゲカナ

  花の陰謡に似たる旅寝哉     (384)  ハナノカゲ ウタヒニニタル タビネカナ

  ほろほろと山吹散るか滝の音   (387)  ホロホロト ヤマブキチルカ タキノオト

  草臥れて宿借るころや藤の花   (400)  クタビレテ ヤドカルコロヤ フジノハナ

  蛸壺やはかなき夢を夏の月    (410)  タコツボヤ ハカナキユウメヲ ナツノツキ

  おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 (431)  オモシロウテ ヤガテカナシキ フブネカナ

  俤や姨ひとり泣く月の友     (452)  オモカゲヤ ヲバヒトリナク ツキノトモ

  吹き飛ばす石は浅間の野分哉   (457)  フキトバス イシハアサマノ ノワキカナ

こうした佳句になると、夫々に含蓄するものの深さに於いて、形象化の完熟度の高さに於いて、貞享中期の句境をしのぐものがある。

おくのほそ道~猿蓑    (初期かるみの句調-)

「おくのほそ道」の旅は元禄二年(1689)三月末に江戸を発ち四月二十日に白川の関を越え、道々歌枕を訪ね乍ら仙台・松嶋・平泉を限りに奥羽山脈を横切って五月半ば出羽に入り尾花沢・大石田・出羽三山・酒田と日を重ねて、象潟を北限として北陸道を南下し、加賀金沢で初秋を迎え越前敦賀で仲秋の名月に会い、八月下旬ごろ美濃大垣に至る迄、行程六百余里、丸五か月に及ぶ長途の旅となった。

この旅の芭蕉に与えたものは頗る大きかった。

「昔より詠み置ける歌枕、多く語り伝ふと雖も、山崩れ、川流れて、道革まり、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に変れば、時移り代変じてその跡確かならぬ事のみをここ〈壺の碑〉に至りて疑ひなる千歳の記念カタミ、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の疲れも忘れて涙もお鶴ばかり也」おくのほそ道「壺の碑」章

芭蕉は其処に悠久なるものと変化流転するものとの交錯する自然と人生の相を観じ、此れが自己の芸術にも共通する所の多い事に目覚める。そして重要な事は、ここから詩の真実

と云うものをこれ迄より遥かに高い次元に立って高所から捉え直した芸術観、即ち「不易流行」の思想に到達し、所謂貞享ぶりを脱皮して俳諧に新たな転生の道を切り開くに至ったのである。

  • 不易流行の思想→芸術作品に永遠(不易)の生命を与えるものは飽く迄深く自然や人生の実相に迫ろうとする眞實探求の精神(風雅の誠)によって掘り起こされた詩的真実であるとする一方、眞實探求の精神が本物であればあるほど、物を見る目も、その表現方法も、何時までも同じ状態に止まっていられる筈が無く、自ずから新しい境地に向かって一歩を進め変化流行してゆかざるを得ず、而もその様に変化流行して新しい真実を求めていく自覚的なプロセスにおいてのみ鮮烈な生命が作品の内部に躍動して来る。とする芸術館観である。

不易と流行は同じ「風雅の誠」の両面に他ならない。

「千変万化するものは自然の理也」三冊子

作品の永遠不易性を保証する為には常に流行が求められなければならない。

この考え方の原質は「荘子」の宇宙哲学に見られるものだが、芭蕉は其れを自己の文学体験、直接的には奥羽行脚の体験と思索の中で市の本質論として発酵させた。

「当時(現在)の俳諧は梨子地の器の高蒔絵書きたるが如し、丁寧、美尽くせりと雖も、漸く是に飽く。予が門人は桐の器を柿合せ(柿渋塗の器)に塗り足らんが如く、ざんぐりと荒びて句作すべし」(芭蕉言―不玉宛去来書簡)

芭蕉は新意の「かるみ」の在り方を探る中で必然的に詩材の問題に突き当たり、観念的虚構の世界を離れたもっと実のあるもの、事実に根差しを持つものの中に真実の詩を求め始める芭蕉文学の詩材は此処に於いて、唯美主義時代の反俗的・古典主義的・虚構的なものへの志向から、日常生活的・現実的・写実的なものへとその流れを大きく変え始める

芭蕉は「奥の細道」の旅を境目としてその俳諧の文学的傾向を大きき転換させた。端的に言えばそれは観念的理想主義から経験的現実主義への転換ともいうべき本質的な転換だったのであり、芭蕉自身に於いてもこの方向を掴んだ時、初めて真の意味における文学の在り様が目に見えてきたのであろうか、これ以後は殆ど迷うことなく、死に至る迄只管「かるみ」の唱導を繰り返しつつ、その境地を極限まで深めていくことになるのである。

【芭蕉句例】本文473~751蕃収録 完成期

 草の戸も住み替る代ぞ雛の家    (483)   クサノトモ スミカハルヨゾ ヒナノイヘ

  行く春や鳥啼き魚の目は涙     (485)  ユクハルヤ トリナキウヲノ メハナミダ

  木啄も庵は破らず夏木立      (495) キツツキモ イホハヤブラズ ナツコダチ

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな    (503) タイチマイ ウエテタチサル ヤナギカラ

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺    (509) サナエトル テモトヤムカシ シノブズリ

  桜より松は二木を三月越し     (511) サクラヨリ マツハフタキヲ ミツキゴシ

  島々や千々に砕きて夏の海     (514) シマジマヤ チジニクダキテ ナツノウミ

五月雨の降り残してや光堂     (516)   サミダレノ フリノコシテシテヤ ヒカリドウ

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声    (522)  シズカサヤ イワニシミイル セミノコエ

  五月雨を集めて早し最上川     (523) サミダレヲ アツメテハヤシ モガミガワ

  雲の峰幾つ崩れて月の山      (528)  クモノミネ イクツクズレテ ツキノヤマ

  荒海や佐渡に横たふ天の川     (540)  アラウミヤ サドニヨコタフ アマノガワ

  国々の八景さらに気比の月     (568)  クニグニノ ハツケイサラニ ケヒノツキ

  初時雨猿も小蓑を欲しげなり    (594)  ハツシグレ サルモコミノヲ ホシゲナリ

 木のもとに汁も膾も桜かな     (615)   キノモトニ シルモナマスモ サクラカナ

 川風や薄柿着たる夕涼み      (639)  カワカゼヤ ウスガキキタル ユウスズミ

  月見する座に美しき顔もなし    (649)  ツキミスル ザニウツクシキ カオモナシ

  桐の木に鶉鳴くなる塀の内     (651)  キリノキニ ウズラナクナリ ヘイノウチ

  しぐぐるや田の新株の黒むほど   (659) シグルルヤ タノアラカブノ クロムホド

  乾鮭も空也の痩も寒の中      (670)  カラザケモ クウヤノヤセモ カンノウチ

  山里や万歳遅し梅の花       (683) ヤマザトハ バンザイオソシ ウメノハナ

  月待や梅かたげ行く小山伏     (684) ツキマチヤ ウメカタゲユク コヤマブシ

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