カテゴリー別アーカイブ: 変わりたい貴女へ

 何事も結構

私は運命と云うものは不思議なものだと思います。人は皆夫々志を立てるのですが中々思い通りに行かないし実現しにくい。希望とは逆の道が自分にぴったり合って成功する場合もあるのです。だから私は余り一つの事をくよくよ気にしない方がいいのではないかと思います。世の中で自分が判っているのは一%程で後は暗中模索。始めから何もわからないと思えば気も楽でしょう。兎に角人間には様々な姿があっていいと思うのです。恵まれた生活も結構だし恵まれない暮らしも結構と云う気持ちが大切だと思います 。                                          松下幸之助「一日一話」6月6日

自分には何でも分かっていると思うより、わかっていない事の方が多いというところに軸足を置いていた方が、何かあっても痛手が少ないということになるのかも・・・ 

石原慎太郎著「法華経を生きる」のなかには

「人間の知恵でしかないインテリジェンスのもたらす不幸」という言葉があります。自分が認識しているものしか信じないということが、結局人間を不幸にしているということにもなるかもしれません。もっと大きな力を信じることも大切。自分の無知を知るということは形而上的なことだけではなく現実生活を生きていく上にも大切なことなのでしょうね。

南洲翁のことば

廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(○書經)仲之誥(チュウキコウ)に「徳懋(サカ)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。         西郷隆盛    遺訓

今まで安岡正篤師の百朝集を中心に倫理観や生き方・考え方の参考になるような言葉を選んでそれに感想など加えてきましたが、これからも基本的には変わりません。が、ちょっと幅を広げて、今話題の渋沢栄一翁の言葉や、松下幸之助、中村天風といった先人たちの言葉の中から、其の時節時節に応じて選らんでいきたいと思っています。

今回は、西郷隆盛の遺訓その第一節、よく引用される言葉を挙げました。現今の政治家の皆様、特にその中枢に入る方々は必須の書簡だと思いますが、今どきの政治家で知っているような人いるのかなと思うような、昨今の政治家の在り様に思えてなりません。早くこのような志高い人が現れることを願ってやみません。

三学

百朝集47章

少くして学べば壮にして為すあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば朽ちず                       佐藤一斎「言志晩録」

安岡正篤解

若い者の怠けて勉学せぬものを見る程、不快なものはない。碌なものにならぬことは言うまでもないが、まあまあ余程の碌で無でなければそれ相応に勉強する志ぐらいはあるものである。壮年になると、もう学ばぬ者、学ぼうともせぬ者が随分多い。生活に遂われて忙殺されておる間に、だんだん志まで失ってしまうのである。そうすると案外老衰が早く来る。所謂若朽である。肉体だけは頑強でも精神が呆けてしまう。反対に能く学ぶ人は老来益々妙である。但し学も心性の学を肝腎とする。雑学では駄目である。古詩bにいう通り「少壮努力せずば、老大徒に傷悲せん」こと間違い無い。でなければ呆けたのである。これに反して、老来益々学道に精進する姿ほど、尊いものはない。細井平洲も敬重した川越在の郷長老奥貫友山の歌に「道を聞く夕に死すとも可なりとの言葉にすがる老の日暮らし」こうありたいものである。そして「老獪晴天に参す」るようなのは実に好いではないか。

松下幸之助「一日一話」3月17日項

修養に場所を選ぶな

人は若い時の心がけ如何に拠り後に随分差 の生じるものである。若し若い時代に自己実力の養成に励まず修養に努めなかったならば、必ず後年後悔をする時が来ると思う。然るに若い人の間では、この仕事は自分に合わないあの主任の下ではどうも働き甲斐がないと、不足を漏らす人がある。これは自己中心のものの考え方の弊害であろう。真に自己の適所を見出す迄には色々経験を積まなければならない。又性格意見の異なった指導者の下で自己を磨く事によってこそ、却ってよりよく修養が得られるものであることを深く知らなければならないと思う。

学ぶことは意思さえあれば、いつからでも、どこででも始められる。時間がないというのは、いいわけに過ぎないと安岡正篤師も松下幸之助翁も多分 いうことでしょう(*^_^*)

六錯&六知

百朝集第55章 六錯

奢を以て福有と為す。詐を以て智有と為す。貪を以て為す有と為す。怯を以て守有と為す。争を以て気有と為す。瞋以て威有と為す。 金襴生「格言聯壁」

世事は往々顛倒錯覚され易い。豪奢な生活必ずしも幸福ではない。が世人は奢即福と錯覚しがちである。深省すべき問題である。威張りたがる人間に限ってよく人を𠮟りつける。六錯実に世間の欲情を穿っている       安岡正篤解

百朝集第56章 六知

静坐し然る後平日の気浮けるを知る 黙を守りて然る後平日の言躁がしきを知る事を省いて然る後平日の心忙しきを知る 戸を閉ざして然る後平日の交濫りなるを知る 欲を寡なうして然る後平日の病多きを知る 情に近づきて然る後平日の念刻を知る                    金襴生「格言聯壁」

今の知識人は外物を知る事を知って、内心を知る事を知らない。技術者は外物を操作することを知って、自己を左右することを知らない。我々はこういう風に時々反省し、操作して、往々失い易い真実の自己と生活とを保全しなければ為らぬ。                           安岡正篤解

金欄生とは 中国清時代の篤行の長者で思想家。生没は不詳日本で云えば江戸時代中期位の人物と云うことでしょうか。金欄生の言葉も安岡正篤師のことばも現代当に、現在の日本の状況を見透かしているかのようなことば。でも、こういうことは今ではあまり、重要視されていないような世情になってしまっているようですね。ヒトの根本にかかわるところがお座成りにされているところに、現代の歪の原因があるのかもしれませんね。

多数と公論

百朝集第76章

晋、楚の難に晋の将、皆戦はんと欲す。三卿之を不可とす。総帥欒武子これに従ふ。或る人曰く、子盍ぞ衆に従はざる。子は大政たり。将に民に酌まんとする者なり。子の佐十一人、その戦欲せざる者は三人のみ。戦はんと欲する者衆しと謂ふべし。武子曰く、善釣しければ衆に従ふ。それ善は衆の主なり。三卿は主なり衆と謂ふべし、之に従ふ。亦可ならずや。                                                  春秋左氏伝「成公六年」

多数決ということを多くの人は一律に考えておるが、こういう考え方もあるものである。支那春秋時代、北方の大国たる晋と、南方の勢力たる楚国との関係が悪化した時、諸将は皆主戦論であったが、三人の要人がこれに反対した。ある人があなたはどうして多数に従わないのですか。あなたは国家の総帥であり、多数の意見を斟酌すべきものです。あなたの補佐役は十一人、そのうち戦争反対は三人にすぎません。主戦派の方が多いのではありませんせんかと詰問した。

すると彼は意見の善さが同等なれば多い方に従う。意見の善いということが多数というものの主である。多数をよく活かすものである。悪ければその多数が誤られてしまう。三人の意見は善い。これこそ真の多数である。これに従うのも可いではないか。

衆愚ということがある。寄って集って皆を台無しにしてしまうものである。それは皆を零にしてしまうものである。表面は少数でも、善者は真の多数である。これがわからぬところに民主主義の愚劣と悲劇がある。                                   安岡正篤解                                   

欒武子 とは (?~紀元前573年)中国春秋時代の晋の優れた政治家

厳しい指摘ですが、現代の私たちも多数決の原理の弊害に侵されているのではと感じるような時がありますね。いい意見でも少数派の意見は無視されること多々あるように思います。下らぬことでも数の力で押し切るというような光景もありますね。本当のリーダーシップの発揮できる人なかなかいないような気もしますが・・・・

小と大

百朝集第83章

臣聞く、小の能く大に敵するは小に道あり、大は淫なればなり。所謂道とは民に忠にして神に信あるなり。上、民を利せんと思うは忠なり。祝史、辞を正しくするは信なり。今民、餓え而も君、欲を逞しうし、祝史驕挙して以て祭る。臣その可なるを知らず。                  春秋左氏伝桓公六年条

嗚呼是、古のことか、今もこの通りではないか。君とは誰か、驕れる自称指導者の流である。民衆の生活の犠牲に於いて支配者が権力を逞しうし、その御用を承る宣伝員、文化人が得々として謳歌する。中ソはその甚だしいものではないか。  安岡正篤解                                                                             

安岡正篤師の解説は勿論昭和のはなし、現状もそう変わっていないような気がしますね。変わったといえばソ連がロシアに国名が変わったぐらいかな。実態や日本の現状も解説の通り。状況はいい方向へ進歩どころかなんだか後退しているようにもみえてくるのは弱者のひがみなのでしょうか。

法三章

百朝集74章

沛公諸県の父老豪傑を召して曰く、父老、秦苛法に苦しむこと久し。誹謗する者は族せられ、偶語する者は棄市せらる。吾、諸侯と約す、先づ関に入る者は之王たらんと。吾、、当に関中に王たるべし。父老と約す、法三章のみ。人を殺すものは死し、人を傷つけ及び盗せば罪に抵さん。余は悉く秦の法を除去せん。諸吏人皆安堵することを故の如くせよ。凡そ吾来る所以は父老の為に害を除き、侵暴する処に非ず。恐 るる事莫れ。且吾軍を覇上に還す所以は諸侯の至るを待って約束を定めんとするのみと。乃ち人をして秦の吏と県の郷邑の行て之を告諭せしむ秦人大いに喜び、争うて牛羊酒食を持ちて軍士献饗す。沛公 また譲りて受けずして曰く、倉粟多く乏しきに非ず。人に費やすを欲せずと。人亦益々歓び、沛公の秦王にならざるを恐る。 史記「高祖本紀第八」

安岡正篤解

革命と政治の要訣はこの一文に尽きると思う。此れの判らぬ者は政治を語る資格のない者である。政治は如何に民情を掴み且簡易化するかである。

この百朝集の巻頭の言葉に安岡正篤師は「易経」も言葉を引用している。

曰く「易簡而天下之理得矣」ー易簡にして天下の理を得たりー

また官庁に省という字を使うのは物事は省いていって簡略化するという意味が込められているともおっしゃっている。はてさて現代の日本は如何なものか。何事も複雑化していっているよう見えますね。
複雑化した 社会・国際関係の現代では仕方がないということかもしれませんが、素人目には、逆転の発想で簡素化することでより住みやすい社会が実現できるのでは、などと思ったりもします。複雑化したことでそれを利用する輩も出てきているのではなどと思ったりもします。現代の日本国際社会の政治行政体制は安岡正篤師の目から見れば、いわば天下の理には程遠い体制ということになるようですね。

決定力

百朝集94章

法然上人曰く、一丈の堀を越えんと思はん人は一丈五尺を越えんと

励むべきなり。

往生を期せん人は決定の信をとりて、しかもあひ励むべき也。

                       一言芳談より

※一言芳談➡浄土教の始祖たちの法語・片言隻句を収録した鎌倉

末期に表されたと思われる著書。作者は不明。

解題)

決定の信とは、例えば法然上人に対する親鸞上人を見るが良い。

「歎異抄」にいう。

「親鸞聖人門徒に向ひて曰ふ。各々十餘箇国の境を越えて、命

を省みずして尋ねきたらしめたまふ御こころざし、偏に往生極

楽の道を問ひきかんがためなり。然るに念仏よりほかの往生の

道をも存知しまた法文等をも知りたらんと、心憎くおぼしめし

おはしましてはんべらんは、大きななるあやまりなり。もし然

らば、南都北嶺にも由々しき学匠たちおほくおはせられさふら

ふなれば、かのひとにもあひ奉りて、往生の要よくよく聞かる

べきなり。親鸞におきてはただ念仏して彌陀に救けられまゐら

すべしと、よき人のおほせをかうぶりて信ずるほかに別の仔細

無きなり。念佛はまことに浄土に生るるたねにてやはんべるら

ん。また地獄に落つる業にてやはんべるらん。総じてもて存知

せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて念仏して地

獄に落ちたりともさらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは

自余の行もはげみて佛になるべかり身が、念仏をまをして地獄

に落ちてさふらはばこそ、すかされまつりてといふ後悔もさふ

らはめ、いづれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定

すみかぞかし。

                     安岡正篤解題

この文書は歎異抄第二章の言葉で次の第三章悪人正機説とともに

歎異抄の中でも最も有名な言葉ですね。御存じの方も多い事と思

います。

安岡正篤師は宗教に関しても広く深い知識と理解を持たれていますが

仏教に関していえばなかでも地蔵菩薩と共に中国三階教の創始者信行

を敬愛している様にも思います。この教えが日本にあまり伝わってい

ない事を嘆いてもおられたようです。

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準備開始

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新しい年を迎え「あおぞら」も新しい事に挑戦中❣

いよいよ具体的にスケジューリングが始まりました。

1月13日には認定NPO法人「あかつき」さんによる

個別アドバイスー約2時間30分。

19日にはリモート研修開始

リモートは2月中旬試験譲渡会を開催3月初旬に

全面的なスタートの予定です。

1月後半には協働ラボ企画(市サポートセンター)に

参加リモートで専門家による情報発信等のスキルアップ

アドバイス&講習が始まりました。

blognoteの開始これは多分月1~2回で数ケ月間の講習

になります。

何れも市サポートセンターの後援により実現しました。

新しい挑戦となりますがよりよい運営・活動、より強固

な体制作りを目指して楽しくメンバーと共に学んでいき

たいと思っています。

これらの新しい取り組みを通じてより多くの方々と

知り合え、皆さんとスクラムを組んでたくさんの命

を救うことができようになれることと思っています。

成果は来年度の活動実績として反映できるものと確信

いたしています。

 

忙しくなればなるほど準備等々に亦愛護活動にも益々

資金が必要となって参ります。

今後とも皆様の温かいご協力を宜しくお願い

申し上げます。

 

振り込み口座名:特定非営利活動法人あおぞら

ゆうちょ銀行-記号:17420 番号:95930371

トクヒ)アオゾラ

他金融からの振込: 店名)七四八 店番)748

普通預金 口座番号)9593037

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2きい&ぱあ

大神宮参宮

百朝集第91章

当宮参詣のふかき習いは、念珠をもとらず幣帛を

もささげずして、心に祈るところ内清浄といふ。

潮をかき、水を浴びて身の穢れなきを外清浄とい

へり。内外清浄なりぬれば、神の心と吾が心隔て

無し。既に神明と同じければ、何を望みてか祈祷

の心あるべきや。此れ真実の参宮なりと受け給は

りし程に、渇仰の涙止め難し。

           坂士佛「大神宮参詣記」

※坂士佛:室町初期の医家。博学多才。本文は一説に彼の父

十佛の作とも(渡会常彰)

解題)

大神宮は世俗の宗教のように御利益など祈請に行くところではない。

末世的に穢れ枉った自分を正直清浄に返して、天地の大生命との冥合

を祈る霊場である。神道史上最も貴重な大著といわれる「類聚神祇本源」

十五巻は渡会(村松)家行の著といわれる。これに新党の玄義を説いて、

「志すところは機前を以て法と為し、行ずる所は清浄を以て先と為す」

と説いている。神道は現代の言葉を仮て言えば、常に永遠の今に生きる。

今という永遠の時点に立つ。故に神代は今にあり今はまた神世に在る。

天地開闢、万物造化を元とし本とする。その元本を離れ、違背して天地

人間の純粋自立的統一体たることを無視し、己私を恣にするところに、

後世のあらゆる迷い、罪穢れを生じる。元来人は万物の霊長であるから

神物である。其の人の心というものは神明である。万事は一心より起こ

る。元に元し、本に本づき、本心に任じて正直清浄なれば、神人合一し

て自由自在である。もっと優しく云うと、村松家行の語に「神気を嘗む」

ー神道簡要ーと言うことが有るが、実によい。砂糖や人間を嘗めるだけ

ではではだめ、神気を嘗める。そして「初を以て常義と為す」(同前)何

でも天地開闢の心構えででゆく。私は日本人自身の思想信仰は究竟する

ところ、神道に帰すると信じている。只神道家の用語が現代人に甚だし

く合わないのは、神道の疎外され易い一原因だと思う。それは確かに、

神道家の反省し、解決せねばならぬ重要な課題である。しかし此れは非

常に微妙な問題で、元来神道は人間の最も自然な道である。人間の最も

自然なものは嬰児である。忌部正通は炯眼にも「辞を嬰児に仮り心を神

聖の求む」と云っている。               安岡正篤解

大正の終わりに東京帝国大学法学博士 筧克彦教授が皇室にて御進講

を行っています。その講義記録が「神ながらの道」という本にまとめ

られています。その中の一節です。

「伊邪那岐神様 伊邪那美の神様は宇宙の生命として人間総ての内、

否、萬物の内に活きていらせらるる神様でございますから、人間の

一挙一動は伊邪那岐、伊邪那美の神様の現れでございます。我々人

間は萬物とともに此の二柱の神様の天地創造事業を今日も未来も永

久に行うものであります。伊邪那岐神様、伊邪那美神様の申し伝え

は昔のことではございませぬ。今日のことであり、又未来永久いつ

も最新なる申し上ぐる譯でございます。

神ながらの道第一段第四章第一節「天地創造の言伝の性質」

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