カテゴリー別アーカイブ: 道徳倫理

ちょっと不安が・・(=^・^=)💖

NPO法人あおぞらnoteBlog投稿より

radioの投稿から・・


先日、早朝のrkbラジオ(福岡)の番組で、リスナーさんからの嬉しい投稿が読み上げられていました😺
内容は、「自宅の庭に来る外猫を家の中へ入れてあげた」と言うもの💞

今でも、「外猫が来るので何とかしてくれ」とか「仔猫が生まれたのでどうにかしてくれ」という、連絡が多い中、この投稿の方の様に自ら、面倒を見ようとする方々もいらっしゃるのは、猫達の為にも心強い限りですね❣❢

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でも、ちょっと心配なのが、その方の投稿はまだ先が続いていて
「家の中へ入れた猫が、3匹の子猫を産んだので、此れからは4匹の面倒を見ることになりました」
と云う事でした・・・🙀

面倒を見て頂けるのは嬉しい事ですが、必要な処置を施さないと、この先とんでもない事態が待っているということになります😹

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内猫は外猫に比べ、環境も恵まれていますし、栄養も十分❣❢
外猫達に比べ長生きするのは当然と云う事になりますが、その間、不妊手術等の処置をしていないと、あっという間に家の中、周りに増えていくと云う事になりかねません。

家から出さないのであれば、最低限でも、♂か♀どちらか一方だけでも不妊手術をしていた方が安心ですね~(=^・^=)💖
多頭崩壊等と云う事態にならない様、可愛い可愛いだけでなく、必要な処置を考えて頂ければと思った次第です❣❢

此のリスナーさんは優しい心根の方の様ですので、その辺のことは心得ていらっしゃると思いますが・・・(=^・^=)💖
此れが取り越し苦労であることを願っています。

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中村天風のことば

中村天風一日一話

元気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 HP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【六月の言葉】

*三日 思っただけじゃダメ

幾ら心の持ち方を積極的にする事が理想だと云っても、其の理想を妨げる様な所謂日常生活を克服する事が出来なければだめなんだ。其の為には克服出来る様にする方法を実践しないでただ克服したい信念の人間に成りたいと思っただけじゃ成れやしない。 考えてご覧お風呂の脇に立っていて沸いているお湯を見ているだけでもって身体が綺麗になるか綺麗に成らないか。お風呂に入って洗い清めなければだめだろう。其れと同じ事だ。

*五日 人間は力の結晶である

命の力を豊富に受け入れられる活き方とは如何なる場合にも心の態度を積極的に保つ事であって、どんな場合にも最高度に引き上げられた自己認証を揺るがせにしない事である。どんな場合にも人間と云うものの生命は一切の生命を凌いでいる力の結晶だと正しく思い込んでしまう事である。そして之を如何なる場合にも心に確りと堅持する事である。

*六日 心大らかに

人各各運命に活きる人世なれば心大らかに過ごさんものを

之を自分で歌に作っているだけに自分で是を実行している。是は本の瞬間の自分の心の持ち方だ。瞬間消極的な事は心の中に入れないことだ。然し入れない様に頑張ると心の中で戦争しなきゃならないからふっといなしてしまえばいいんだよ。

*八日 不運から心を離す

病也運命から心が離れた時は病が在っても其の人は病人じゃない。運命が悪くても其の人は運命の悪い人じゃない。ようく寝ている人間は何も知らない。何も知らない人間に病があるか。目が覚めて嗚呼病があると思うんじゃないか。運命が良くってもいいか運命が悪い時の事を考えてりゃその人は運命が悪いのと同じだ。その位の事あ羅貯めて私から聞かなくたってもう判ってる筈だ。

*十一日 傑出した人物

実際古今共に所謂傑出した人物と云うのは何れも皆有意注意力が完全な人々の事を言うんだ。何事に対しても周到にその観念が統合され従って精神も統一され、その結果全ての能力が同輩を凌ぐ為に嫌でも自然と傑出しちゃう。だから何時も何事でも自分の好む事を行う時と同様に気を込めておやりなさい。

*十二日 真理は厳しいもの

自然界の存在する人間への掟は真に厳しい。然も是は千古変わらず久遠のその昔から永遠の将来迄証と実存している。真理はお前はそういう場合だから特別に見よう。まあ兎に角今度は機嫌の良い時に教わった様におしよと云う事は云いやしません。真理は峻厳にして侵すべからず。間違った生き方に対する正しい心構えが万一にも用意されないと忽ち事実が貴方方に反省を促します。その反省を促す事実とは如何にと云えば病なり不運なりです。

*十五日 原因結果の法則

凡そ人生には人生を厳格に支配している一つの法則がある。其れは原因結果の法則である。そして人生と云うものは其の人が自覚するしかないかを問わず、この法則を応用する度合いに比例する。即ち蒔いた種の通り花が咲くと云う法則である。俗に言う善因善果悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄を作り又極楽を創るのもこの法則があるからである。

*十八日 不幸は幸福を招く原動力

不幸に直面したら先ずその不幸に際しても尚且つ生命を失わずに現実に活きていられる事を感謝する事に心を振り向けるべきである。するとそうした心掛け其れ自体が幸福を招いてくる原動力となるのである。

*二一日 人間の大使命

人間は此の世に病む為に生れて来たのでもなければ又煩悶や苦労をする為に生れて来たのでもない。否もっと重大な使命を遂行する爲に生れて来たのである。其の大使命とは何かと云うと宇宙原則に即応して、此の世の中の進化と向上とを実現化する事に努力すると云う事である。即ち人間は斯う云う尊い大使命を遂行する爲に現象界に生れて来たものである。

*二二日 心身統一の効果

あらゆる力と云うものは気と云うモノから生まれる。人間が人間の生命の有りの儘の姿である心身一女如を現実にする爲、心身を統一した活き方を行えば当然生命存在の根源を為す処の気と云うモノの収受量が増大する。そして命の力の内容量も亦当然豊富となりそれが精神方面に表現すれば心の力となり、肉体方面に表現すれば体の力となる。人生建設の根源要素となる体力胆力判断力断行力精力能力の六つの力も之に応じて優秀化してくるのである。

*二三日 和について

和とは不可分の統合即ちYOGAの事である。人間の人間らしい活き方とは心身の統一即ち心と肉体が輪になった活き方である。是以外の活き方では本当の人間としての真の価値を発揮できない。生命の和が乱されれば肉体も精神も其の健康味を発揮する事が出来ない。特に精神の不健康は社会をも濁らす事となる。何故ならば人間としての道義性が著しく欠如してどんな場合にもその振舞いが自己本位に堕するからである。

*二六日 悩みと縁を切る為に

凡そ悩み程人生を暗くするバカげた真理現象は無い。処が大抵の人は悩みを持たない人間など居る筈が無いと云う誤った考えを持っている。是こそが取り越し苦労或は消極的な思考を常とする証拠であろうが、人間の心には其の統御が完全でありさえすれば即ち心理に合致して積極的でありさえすれば悩み等と言う真理現象は絶対に起らないのである。依ってその消息を確と認識すべきである。

*二七日 見えなくてもある

科学的教育を受けた者は、感じないもの見えないものは無いものだと思っている。直に証拠はと聞きます。第一我々の生きている現在の大気の中には、酸素窒素その他の我々の生命性活動を力づけるに必要な要素が存在している、と云う事は誰にも見えやしない。其れでも見えなくたって在ると信じますよ。証拠はとは云いませんよ。人間の住む地球上には電波が縦横無尽に交錯していると云う事は形が見えなくても疑わないでしょう。

*二九日 行とは何か

行なるものは決して特殊の方法や手段を特定に時間や場所で、特別に行う事ではなくその方法やその手段其の物が其の儘自己の生命を活かす方法になって要る事で、是を客観的に言えばその方法や手段でその人はその生命を生活せしめてその生命を確保していると、云う事になるのであります。

*三十日 人間の能力

人間の本来の面目は創造的なものである。それ故に人間が万物の霊長として一切の生物を遼河して優秀なる能力を生れ乍らに賦与されているのは是が在る爲である。しかも特に疎かに出来ない事は、其の賦与量は些かも差別の無い公平なものである。この一言を考慮されても自己の現在使用している能力に対する反省が厳格に行われて、その是正が確実に施されるなら一切の総ては悉く可能に転換され収握される事も亦必然自明の事と感得される。

快著「逆・日本史」

著書紹介第2弾

前回「影の現象學」のあとがき書評を紹介しましたが、今回は「逆・日本史」
考古学者 樋口清之教授の著作全4巻のあとがき書評紹介いたします。

[影の現象学」の書評では名著であると紹介していましたが、今回の「逆・日本史」は快著であると紹介されています。読んでいて痛快さを感じる事の出来る面白い通史と云う事になるのでしょう。「逆」というだけに、歴史を今の時代(昭和)から段々と遡って考古学の時代までを俯瞰するというもの。内容は、ご自分で実際に手にとって読んでいただければと思います。

【著者経歴】

1909年奈良県生まれ。国学院大学を卒業。現在(S60年代現)同大学名誉教授。日本考古学の創成二多大の貢献を残すが、特に登呂遺跡発掘は有名。 また、日本および日本人へのユニークな視点と独特の口調で、数多くのファンを持つ。「梅干しと日本刀」他著書多数。
(1909年 1月1日 – 1997年 2月21日

巻一末尾(書評)

読んで一気に巻末に至る快著   渡部昇一

「梅干しと日本刀」を詠んだ時の強烈な印象を、まだ覚えている人も多いと思う。ユニークな視点から、日本人の本質に迫る道を示してくれたからである。日本人は外から触発されて発明し、改良する天性を持っていることを最初に示されたのも、この本であった。

その樋口先生が、まず自分自身の事から書き始めるという「逆に読む日本史」を出された。面白くないはずがない。読んで一気に巻末に至ると云う事になる。

更に樋口史学の特色は、文献のみならず形而下的な、物質的な処にも、目配りが行届いている事である。例えば食い物の話である。源氏と平家の食い物が違っていたことと勝敗の関係などは、この前の戦争の体験者には身につまされる話である。而も決して唯物史観には堕していないのだ。

 

逆・日本史1(1~4)

庶民の時代・昭和→大正→明治 

樋口清之著 NONBook 昭和61年11月25日初版

松本清張 あとがきコメント

逆・日本史の試みに喝采

歴史事実の結果を集めて、説明する。一般の歴史に対して、もし今から年代を遡って、歴史事実の起こった必然性を追求する。いわば本当の『倒叙・日本史』が出現したらと、期待を持つのは、私一人ではないであろう。いや、本当の歴史とは、歴史事実の原因と必然性を、時間の流れを逆に追及すべきものだとも言えそうである。

しかし、教科書が中心になって、今日に至る歴史の動きを常識化してしまっている現代で、ひとりこんなことをやっても、異端者として批判されるだけだろう。

その困難の中で著者は、勇敢にその私案をここに纏めた。私は著者と相識る事何十年、心から著者の試案に拍手を送りたいし、その成功を祈ってやまない一人である。

逆・日本史2(1~4)

武士の時代・江戸→戦国→鎌倉 

樋口清之著 NONBook 昭和62年2月5日初版

会田雄次 あとがきコメント(京大名誉教授)

日本人の本質を説き明かす

学者の核歴史はつまらない、と云うのが世間の常識である。しかしながら、樋口先生が語る歴史は、例外なく面白く、そして為になる。

歴史は虚と実の間の薄い膜を縫う布のようなもので、其の織り方の上手・下手が布と模様の善し悪しを決める。樋口先生は名人との云うべき其の織り手なのだ。

本書は江戸時代から遡って鎌倉時代に至る「士の時代を」を取り扱ったものだが、素の武士政権の期間にも、此れほど優れた人物、面白い人物、巧みな技術等々が満ち溢れ、流れていたのかと驚くほど多くを教えられ、あらためて確認させていただいた。 日本人の本質が何かを知りたければ本書を読むべきである

逆・日本史3(1~4)

貴族の時代・平安→奈良→古代 

樋口清之著 NONBook 昭和62年3月31日初版

山本七平 あとがきコメント

巻を措くあたわず 興味津々の一冊

なせ現代があるのか、其れは明治時代があったから。では、なぜ明治時代があったのか。それは徳川時代があったから——。こういう形で歴史を逆行していくと、鎌倉幕府に突き当たる。

では、まぜ幕府が政治の中枢になったのかといえば、其れは四百年続いた平安時代があったからである。そしてそれを支えたのは、表の公地公民制と裏の私地私民制という奇妙な対背だが、其れを出現させたのは藤原氏と云う策謀家。だが実は、彼らは蘇我氏のやり方を踏襲している。では蘇我氏は?・・・・・と云う形で、本書は「なぜ」を解きつつ、日本民族の始原にまでさかのぼる。まことに興味津々、巻を措くあたわずとは、こういう本の事をいうのであろう。

逆・日本史4(1~4)

神話の時代・古墳→弥生→縄文 

樋口清之著 NONBook 昭和63年3月1日初版

堺屋太一 あとがきコメント

歴史に面白さを取り戻した快著

神話は歴史ではないー此のことは、戦後事の外強調されてきた。しかし、神話が生まれ伝えられてきたという事実は、まぎれもなく歴史である。このことを、戦後の歴史教育は忘れていたのではないだろうか。

人の世は、ものと心から成っている。人の世を語る歴史も亦、昔日のものと心を等しく語らなければならない。戦前の歴史観は、日本人の心ばかりを強調して空想化したが、戦後のそれは、物ばかりを重視して美と志を見失った嫌いがある。著者は、其の双方を語れる碩学だ。歴史に面白さを取り戻した。「逆・日本史」が歴史と神話を繋いで見事に完成した事を喜びたい。

名著「影の現象学」

遠藤周作のことば


河合隼雄 という深層心理学者を知ったのは、数十年前に或るTV番組で、京都大学での最後の講義が特集番組として組まれていたのを観た時が初めて。

其れから興味を覚え、河合先生の著作を色々と拾い読みを始めた。所謂ユング派の心理学ー深層心理学とも言われる分野の第一人者による著作品ですが、別にアカデミックな内容のものばかりでなく、エッセイ的に書かれたものや、対話集や、分野として判り難いと思われるところを、素人にも分かり易く解説して非常に面白い内容のものばかり。

当時、よく読んだ本と云えば、安岡正篤師の本、梅原猛先生の本とこの河合隼雄先生の本と云う事になります。

河合隼雄 先生はNET上など一般的に紹介されているのは

日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。また、箱庭療法を日本へ初めて導入した。臨床心理学・分析心理学の立場から1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備にも貢献した

等と云うもの。

ここでは、全くの門外漢である私が読んでも非常に面白いと思った「影の現象學」と云う作品。内容は皆さん興味を持たれたら読んでいただきそれぞれに感じて頂ければと思います。

ここで紹介するのは、本のあとがきです。

キリスト教の信者としても知られ信仰をテーマに沢山の文学作品を残されている遠藤周作氏が「自分はこの本によって救われた」「この本は紛れもなく名著である」と言い切っています。                        何故そうなのかと云う事を熱く綴られていますので、少し長いですが全文をご紹介します。

ご興味を覚えられた方は、この本と共に他の著作品も読んでいただければ嬉しいですね。

あとがき書評 推薦の言葉 遠藤周作

これは名著である。少なくとも私ははじめてこの本を読み終わったときに味わった何とも言えぬ充実感は今でも忘れられない。

私のように少年のころから古い型の基督教の教育を受けたものには人には言えぬ悩みがつきまとっていた。

その悩みは大まかに言うと自分は二重人格者ではないかということだった。  いや、二重人格者どころか三重人格者ではあるまいかという気持ちが絶えずつきまとっていたのである。当時のことながら私が受けた基督教教育では表と裏とを使い分ける若者をおぞましいものと看做していたし、当時の日本社会でも裏のある人間は陰険で男らしくない、卑怯な男子と考えられていたのである。

私は比較的にスナオでなかったから、戦争中の日本社会の教える道徳を馬鹿にしていた。しかし馬鹿にしていることを決して外に出してはならぬ時代だった。一方、教会で要求する「きよらかな魂」にはどう努力しても至りつけぬことに本気で絶望していた。

恐らくその頃の青年は誰でもそうだろうが、私は生活の為に仮面をかぶっていた。周りを悲しがらせぬため教会には熱心に通い、周りの者のイメージに合せたり時には自己錯覚までして神父になろうと考えたり、そのくせそういう皆から愛される自分が仮面を被っている偽善者だという痛烈な自己嫌悪を持ち続けていたものだった。

仮面がある以上本面がある筈である。外づらがある以上内面がある筈である。内づらとは世に言われるように家庭に於いてのみ見せる顔ではない。人は家庭でも妻や子に対して仮面を被るのが普通だから。ほんとうの内づらとは正宗白鳥が言った「どんな人にもそれを他人に知られるくらいなら死んだ方がマシだという顔がある」というその顔である。

それをユング学者の河合先生は影(シャドオ)と謂う言葉で表現されている。正直いうと影と謂う言葉は本身に較べて仮身という感じがするが、この本をお読みになると影の方が本身で、われわれの本身のほうが影かも知れぬとさえお思いになるだろう。

私は内づらと言ったが、内づらにも二種類ある。

他の人は誰も知らないが自分だけが知っている自分の顔。もうひとつ、他の人は勿論自分も気づかない自分のもう一つの顔。

私の友人に井上神父というカトリック司祭がいるが、彼が「世にも怖かった話」としてリヨン時代の出来事を話していた。

神学生の頃、彼はリヨンの老夫婦の経営する家に一夏下宿していた。その家の夫は病弱で妻はとても献身的だった。そして医者は妻に夫の為に食事療法の大切さを説き、病院が食べていい物と食べてはならぬものを教えているのだった。

だが井上神父が不思議に思ったのは毎夜食卓に出る愛情を込めて作られた料理は―医師から禁じられているものだったのである。井上神父は吃驚して病人の妻にそれを注意した。

妻はよくわかっていると泪ぐみ、その翌日も翌々日もやっぱり「食べてはならぬ食べ物」を夫の皿にのせた。そして夫が其の為にぐったりと疲れ、胃の苦しみを訴えると妻は泣いて悲しむのである。彼女は本当に夫を愛しているのだ。

この人間の複雑な心理。井上神父は終に怖くなって「その家を出て別の下宿に移った」という。

ああこれがリヨンの街だと私はその話を聞いたとき思った。リヨンの人たちはあまりに敬虔なオーソドックスな基督教信者が多い街である。だが私があの街に留学をしていた二年半、十一月から三月まで街はすっぽりと乳白色の霧に包まれる。そしてその霧の中をうろつく数多の影を見た。

あの影は単なる人影ではなくてユングのいう影だったのだ。私は今でも夢の中で私を追いかけてくるあの影をみる。影は―本書をお読みになった方はよくお分かりだろうが、私の分身なのである。もうひとつの私であり、私とそっくりの内づらをした男だったのだ。

勿論そんなことがリヨン時代の私に判る筈はなかった。しかし当時の日記を広げてみると (拙著「作家の日記」) そこには恰好のいい他人に読ませるようなタテマエの日記(例えば荷風の日記)ではなく、悪夢・影・小人・レジスタンスの虐殺場所やリヨン市の中でナチが拷問を行った地下室をそっと覗きに行ったことなどが多く書きつけてある。今にして思えばその古い建物の地下室をこわごわ覗き込んだのは、私は人間の心の奥底を、影の部分を見たかったからだと思う。

やがて小説家として書き始めたそんな私とりわけ心ひかれた作品は、フランソワ・モウリヤックの「テレーズ・デスケルウ」である。それはこの小説が恐らく最初に人間の無意識に手を突っ込んだ傑作だったからである。主人公の女性は善良な夫にある日、毒を飲ませるが、其の毒を飲ませた心の衝動を作者は一行も説明しない。そして当の女性もわからないのである。それは彼女の無意識から発した「何か」が行わせたものであり無意識はあまりに混沌としているから、小説家にとって分析できないのである。

この小説に惚れ込んだ頃、私は無意識とは暗黒のドロドロとした、そして罪の母胎のような領域と思っていた。それはひとつにはモウリヤックがフロイトを通して無意識を知ったこともあろうし、また私が学んだ西欧の基督教伝統では、理性的ならざるもの、意識的ならざるものは寧ろ排斥される傾向があった。必然的に無意識は何となくおぞましいもののように思われていた。(基督教に於ける神秘主義の扱いにはそういう傾向がある)

このことは私自身にも自分の心の奥にある影の部分を忌まわしい暗いものの集積として考えさせた。それが私に二重人格、三重人格と考えさせていたのだろう。

だからはじめてこの「影の現象学」を読み終わったとき、私は何とも言えぬ悦びを感じた。二重性、三重性は私一人ではなかったのだ。それは人間そのものの心の構成をなしていることを教えてくれたからである。

のみならずユングと河合氏とはフロイトと全く違って、無意識の中に創造的な力を強調している。無意識は我々人間に深い洞察力や将来を見通す眼を与えてくれ、そして多くの芸術家に力を貸してくれる協力者でもあることを述べている。

この本がきっかけとなって、私は人間を描くうえでいろいろな視野をひろげることができた。例えば、文化人類学の本にも興味を持ち始めたのも、日本で最も優れた深層心理学者の河合教授のもろもろの著作の御蔭であることはいうまでもない。

それまで非科学的、非客観的(?)奇怪な非合理的なものとして一笑にふされたり、単なる「偶然」としか考えられなかったものに、東洋思想や仏教の考えを改めて尊重してくれる起点もこの本の中に含まれている。大きく言うならば、私は「科学と宗教」の調和という、おそらく二十一世紀の思想の足音をこの本の中に聴くことも出来る。

そういういろいろな可能性をこの一冊の本が含んでいることを読者は知って欲しい。繰り返すがこの本は戦後の名著の一つなのだ。

※ 宗教=誤解の無いようにいっておくがこの「宗教」という意味は従来の限られた教団と信徒を持っている既成宗教をさすのではない。人間とその人間を超えた大きな命を重視する宗教の事である。正確に言うならば「宗教性」と言った方がいいかもしれない。

影の現象学 河合隼雄 講談社学術文庫 1987年12月10日初版より

中村天風のことば

中村天風一日一話

元気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫 2006年12月1日第一版第18刷発行 HP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【五月の言葉】

*二日 社会の改善をする為に

常に善良な言葉人を勇気づける言葉人に喜びを与える言葉已を使っている人が、増えれば増える程この世の中って云うものはぐんぐん光を増してくるんだよ。そういう人が増えない限りはどんなに社会改善を行おうと国家改革を行ったって駄目だよ。社会だ国家だって結局人間の塊だもの、人間自体がだらけた腑抜けた始末に負えない弱音ばかり吐いていたら、社会は改善できないし立派な国家には出来ないんです。

*四日 つぶやきの自己暗示法

低級な欲望や劣等感情情念がヒョイと心の中に発動してきたなと思ったらねソリロキズムと云うのをやってもらいたい。日本語に訳すとつぶやきの自己暗示法と云いましょうか。何も口にブツブツ出さなくていいんですよ。観念で独り言を言えばいいんです。こんな事に腹が立つかこんな事悲しくない自分はそれ以上勝れた心の持ち主だと云う風に自分自身が一人でつぶやくのをソリロキズムと云うんです。此れが又バカに効き目があるんですよ。

*七日 自己を作るものは自己也

他力依存の態度では到底自己自身からの実現性が何としても発揮され得ない。自己を作るものは自己也という真理は真に侵すべくもない絶対的なものである。

*九日 笑いは人間の特権

平素人生に活きる時に努めて明るく朗らかに活き活きと勇ましく生きる努力を実行すべきである。と同時に此の意味に於いて私は大いに笑いと云う事を礼賛する。笑えば心持は何となく伸び伸びと朗らかに成る。この簡単な事実を案外多くの人は見逃している。人間は万物の霊長として重い大きな負担を負っている。笑いは其の疲れた心や体を程よく調和させる様に人間に与えられているものである。

*十三日 原因の無いものは無い

凡そ此の世のありとあらゆる事物の中に原因の無いものは絶対に一つとして有得ないのである。此の事が絶対真理であると云う事は自分の言動や仕事などの結果に、何か意に満たぬものがある時それを子細に検討すると必ずや力か勇気可若しくは信念が欠如していたが爲だという原因的事実がある。

*十六日 心身統一法は修行に非ず

心身統一法の目的は人間の生命に賦与された本然の力の完全発揮であるが、その方法を修行として行ったのでは第二義的となる。では第一義的とは何かと云うと其れは講習や書籍或は行修を通して教える各種の方法を日常行事として行う事である。即ち特別な機会に特別な気持ちで行う等と錯覚してはいけない。だから一人一人の日常生活の其れ自体が其の人にとっての心身統一法其の物でなければならない。

*二十日 調和ある処完成有

そも調和と云う事は厳粛なる宇宙本来の面目であり且つ復人生の実相であると同時に、生きとし生ける生物の生命の姿なのである。言い換えると調和と云う事は、万物存在の絶対に侵すべからざる尊厳なる自然性なのであると云う事を理解されていると信ずる。またこれは論より証拠で調和のある処のみ所謂真の完成と云うものがあって、反対に調和の無い処には絶対に完成と云うものはあり得ないのは一切の事物事象に明瞭に現れてくる。

*二一日 孤立と独立は異なる

抑々孤立と云う事と独立と云う事は全くその意味を異にしている。勿論独立と云う事は正しい自覚を持つ人間として最も尊い人生状態である。が然し孤立は天理に反する無価値のものである。である以上自分の事のみを考えて他の人々の事を考慮に入れない人生観や生存生活の方法と云うものは、自分では寧ろ気付かずともそれは取りも直さず孤立と殆ど五十歩百歩、些かの異なりもない状況なのである。

*二三日 深呼吸の進め

クンバハカ(精神反射の調整法)を応用しながら日に何千回でもいいから深呼吸する事を稽古しなさい。息は吸う時よりも出す時が肝心なのよ最初、肺臓の悪ガスを出す事が大事なんです。呼吸なんだから呼の方から先におし。斯う云う呼吸法をやっているといざと云う時にクンバハカがぱっと出来るばかりでなく、落ち着いた気分が求めずして自分の気持ちの中に出て来て、今迄の様に感情や感覚に矢鱈引きずり回されなくなるんです。

*二五日 人間は一個の小宇宙

人間の生命の中にはこの宇宙の中に存在する在りとあらゆる一切のものが悉く存在していると云う不思議な事実がある。此の宇宙は所謂物質によって形成されている。そしてその物質は大別して動物植物鉱物の三種に分かれる。然るに我々人類の生命の中には以上の一切の物質が各種の形態の下に悉く存在しているのである。哲学者が人間を一個の小宇宙也と形容しているのもその理由は此処にある。

*二六日 言葉は人生を左右する

万物の根源である気が人間の心の中に入って観念となりその観念が施行となる。そしてその思考が一方に於いて行動となり他方に於いて言葉となって表れる。是は人間の身が創造主から与えられた恩恵で在り他の動物にはない。言葉と云うものは思考が結集し其れを表現する為のものである。言葉には人生を善くも悪くもする力がある。だから言葉は人生を左右する力のある哲学で有科学であると云う事が云える。

*二九日 進歩の階段

人生は心の操縦を完全にする事が重要である。人間の心は常に発達しているので瞬間と雖も之を等閑に附してはならない。人類の心が今日に為る迄には実に長い時の経緯と数多い進歩の階段を踏んできている。そして今後も進歩の階段を昇っていく。従って心を完全に操縦するには、潜在意識を正しく理解しその運用を的確にして心が其の進歩の階段を的確に踏みしめて登れるように、側面から誘導する事が肝要である。

*三一日 自力で生きているのではない

どんな慌て者だって自分の力で生きているとは思わないでしょうな。若し自分の力で生きているなら時が来ても死ぬ筈は無いじゃないですか。何時までも自分の力で生きておられる筈ですし現在在るが儘の自分を保っていられる筈です。処が自分の力で生きていない証拠には今から後十年経ってごらんなさい。現在の自分とは同じではないですから。自力でなく他力で生かされているからこそ時の流れと共に変わるんです。

俳句ー猫

😺猫の春夏秋冬-2(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

前回に引き続き駄句へお付き合いお願いいたします(=^・^=)💖
今回は秋・冬+新春の句です
最初にお詫びです=^_^=なるべくこちらで撮りおきの写真を使おうと思いますので、写真と駄句のイメージや季節的に時期がちょっとズレている処もありますが、其処は皆様の想像力で補って頂ければと思います。

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百万回生きた猫読む盂蘭盆会

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秋の虹二十三年生きた猫

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ゆく秋や猫は里子にもらわれて 

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猫に明け猫に暮れはや大三十日
年の瀬の闇に子猫の声幽か

春(新春~)

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元旦や玄関先のさくら猫

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 涅槃西悟りきったる猫の顔

お付き合いありがとうございました(=^・^=)ニャ~💖
また、機会あれば折々に詠んでみたいと思います。

https://note.com/2019dobutu

俳句ー猫

😺

猫の春夏秋冬ー1(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

折々に猫たちのことを詠んでいました。謂わばメモともいえます。其の中から幾つかをあげて見ます。春夏―秋冬 に分けてご紹介いたします。どうぞ駄句(=^・^=)にお付き合いお願いいたします。
最初にお詫びです=^_^=なるべくこちらで撮りおきの写真を使おうと思いますので、古い写真もあり、また、写真と駄句のイメージや季節的に時期がちょっとズレている処もありますが、其処は皆様の想像力で補って頂ければと思います。

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長閑さや横断歩道渡る猫
春うららとなりの屋根に猫二匹

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子育てののらの背中にがんばれよ
野良猫(ノラ)の子よしぶとく生きよ沈丁花

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猫の目の奥は魔界へ五月闇

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梅雨明けと共に保護猫家を出て
猫の目の定まる先の蜥蜴かな

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本にあごのせて仔猫の昼寝かな
親子猫茅ノ輪をくぐる夜明け前

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夏木立お狐さまのやうな猫
ノラ暮し炎暑を凌ぐ知恵もつき

お付き合いありがとうございました。
明日は、秋と冬の句を紹介します(=^・^=)💖

https://note.com/2019dobutu

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保護猫近況(=^・^=)💖

NPO法人あおぞら

特定非営利活動法人「あおぞら」のブログ投稿記事より転記したものです。

内も外も・・


昨日は雨模様❣❣ 大雨となった地域もあるようですが、ここ門司港は其処迄ひどいという降り方ではなかったようです。
気温も一時期に比べると、雨模様でも極端に冷えると云う事も無く、いわば「催花雨」・「木の芽起しの雨」ということになるようですね~💖
家の中の猫達も外の猫達も、其々のお好みの場所で、ゆっくり過ごす時間が増えてきた様です。

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家出中の親子猫「てん」と「にゃんにゃん」も大分、過し易くはなってきた様で、近頃は、雨・風よけの物置の中で過ごす時間も短くなってきた様。

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子供の「てん」の方は、既に外暮しが2年目になって、最早、地域猫の風貌になってきていますが母親の「にゃんにゃん」は少し前までは家の中で過ごしていたんですがね~(=^・^=)

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家の中に保護していた当時の「にゃんにゃん」横のキジは夫猫の「ふー」


家の中、恋しくないのでしょうか。
大人しい😻だったので、大勢の保護猫の中で夫猫「ふー」と過ごすよりも、子供の「てん」とのんびり外暮らしの方がいいと判断したのかもしれませんね~。
食べるのも寝る場所も仲良く殆ど一緒に過ごしているようです。

今は無理をせず、外が嫌になったらそのうち戻って来るかもと云う感じで、気長に待つことにしています💖

家の中では、毎朝、ひと暴れしないと落ち着かない「しま吉」や、2Fのベッドから殆ど動かない「ちょろ」「とび」「ちび」等過ごし方さまざまですが、春っぽいこの時期ともなると、昼間は、やはりのんびりと寝ている時間の方が増えてきている感じです。

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少し、問題なのが、普段は2Fにいる「くろ」が時々下に降りて来て「しまきち」にちょっかいを掛ける事❣❢ 今迄はそんな事なかったのですが、如何した心境の変化なのでしょうか。

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一番若い「もふ」も随分、落ち着いてきた様で、お気に入りの段ボールの中でのんびりしている時間も増えてきた様子(=^・^=)夜もゲージから出てみんなと一緒に寝ていても大丈夫。

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預り中の「ふく」と「まろん」も段々と環境に馴染んできてくれている様子。時々、ゲージの外と内とで、家の中の保護猫達と見合っている事もありますが、両方とも威嚇する様な事も無いようです。

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其々のお好みの場所で、それぞれにトラブルなく過ごしてくれれば、其れが一番ですね~❣❢

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中村天風のことば

中村天風一日一話

気と勇気が湧いてくる哲人の教え366話

2005年8月22日初版発行PHP文庫2006年12月1日第一版第18刷発行 PHP研究所

因みに中村天風とは何者か!ご存じの方は多いと思いますがウィキペディアでは 日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員。孫文の友人であり、中華民国最高顧問の称号も持った。天風会を創始し心身統一法を広めた 。

また、学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動する。戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受けて渡米し、世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝えるために講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助など日本を代表する実業家も含まれる。 と概略では紹介されています。

※ニューソートとは(ウィキペディアより)
19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動の一つという事の様です。

短い言葉の中に人生の生き方・考え方が凝縮されている様にも感じます。全て実践できればいいですね~。

【四月の言葉】

*一日 聖賢というものは

優れし人言い換えると蘂手の真理を知っている聖賢と云うものは、心が只単に積極的であるばかりでなく本当の心の強さの中に気高さを持っている人の事なんだ。心の中の気高い強さと云うのは結局要するに卑屈に痩せ我慢で強さを造ろうとするのでなくて淡々として少しも気張らずに強く成り得ていることを言う。だから優れし人には絶対に不運と云うものは来ない。

*二日 真の健康と食物

地上の動物はその食物の種類で凡そ次の三種に分類される。肉食動物・草食動物・果食動物である。元来動物は生きていく為に新陳代謝を行うが、その作用で大なり小なりの毒素は絶えず発生し血液やその他全身の組織の中に存在している。然るに動物を食すれば其の毒素は無条件に食した人の体内に入ることに為る。菜食は肉食よりも遥かに優れているがあらゆる点から見て理想的な食物は果物である。現実的には植物性を七割以上動物性を三割。以下としつつ極力果物を多く摂る様にすべきである。

*四日 積極的態度

何でもない時は矢でも鉄砲でももってこいと云う気に為るけども、健康上に故障が有ったり運命上に少しでも儘為らない事があると、そういう場合こそより一層心の態度が積極的で有らなきゃならないのにすぐ青菜に塩みたいになってしまう。こう云うのを積極的態度と云うんじゃないんですよ。どんな場合があっても積極的と云うのは心の尊さと強さと正しさと清らかさが失われていない状態を言うんです

*六日 外界印象の取捨選別

精神生命に外界の印象を受け入れる時には、その印象を受け入れて良いものか悪いものかを吟味しなければいけない。然しこの時の半分の半分も注意しないで受け入れてる人が多かない?それが結局貴方方を気の弱い神経過敏にしちゃった。神経過敏な人と云うのは五か十ぐらいの僅かな刺激ショックも其れを心に知覚せしめる時には百二百に誇張して感じさせてしまう。斯う云う人は精神生命に外界の印象を受け入れる時此れからは特別入念に吟味して取捨分(選)別を完全にしなきゃいけない。

*八日 人生と心の法則

我々の生命の中にある肉体は勿論精神生命も一切の広い意味における人生の事柄は、心の運用如何に拠って決定する事が出来るという真理を私は覚り得たのである。人間の心で行う思考は人生の一切を創る。この法則を巖として自覚して常にこの法則を乱さないように活きるならば人生は期せずして大きな調和の元に満たされる。そして無限の強さと生命の無限の自由と云うものは自然的に出てくる。

*十日 自分自身と云う存在

自分の心や肉体の存在を意識的に自覚したのは多分生後三年か餘年たってかれであろうと推定する。そこで自分で自分に聞いてみる。自分自身が心や肉体の存在を意識的に自覚しなかった当時自分と云うものが存在していなかったか如何か?言い換えれば自分夫の生命は存在していなかったかどうかである。私の生命は自分自身心や肉体の存在を意識的に自覚するかどうかに関係なく、既にその以前から立派に存在していたのである。

*十三日 理智に依存しない人生

理性や感情と云うものはその人の心身に享受した教養や又は経験から培養された理智を根源とすると云う忽諸に附す可からざる大きい事実関係がある。然し理智なるものは常に間斷無き発育的情勢を以て推移していると云う相対的なものである。然るに斯くの如く多分に変移性を持つものに人生生活を依存すると屡、其処に図らざる蹉跌が生ずるのは必然で煎じ詰めれば人生の悲劇も地獄も不平も不満もそうした無自覚を基点として発生するのである。

*十五日 無駄な精神消耗

神経系統と云うものは人間の命を活かす生活機能の中で一番大切なもの言い換えれば神経系統の生活機能のお蔭で我々の生命は斯うして生き永らえているのであるが、やたら気取ったりぶったりしている人は勿論自分では結果にそう云う良くない事実が生じてくる事に気付かないで、否気付かないと云うよりも無知であるが為に考えること無しにと云って好い程無頓着で矢鱈と価値の無い無駄な神経消耗を殊更に行っているのである。

*十八日 苦行より自覚

真理と云うものを知らなかった時代の私は、何か苦行をするとか或は特別苦心の研究と云う様な事をしない、完全に理解する事が出来ない様に思っていた。然しそうじゃない。現にインドに行って耐えられない難行苦行は余りしなかった。しないでも真理を掴めた。苦しい修業をしてからでないと自分は強くなれないと考えていると、強く生きられないのが自分の無自覚からきていると云う事に聞か付きません。

*二十日 悟れば幸来る

悟れば一瞬にして幸来る此の真理が心の中に輝くと健康も運命も共に求めずとも完全に成る様に出来ているのが人間なのである。其れは心と神経との関係を考えればすぐ実証される。そしてこの宇宙の生命エネルギーを自分の生命に受け入れるのも復そのエネルギーを全身に分配するのも神経系統が行っていて、その神経系統が直接または間接に心の支配を受けている爲であると分かれば、どんな人間でもこの厳粛な事実の上から自分の心の立派な論定が出来るに違いない。

*二二日 不平不満の悪影響

知る識らざるを問う事無く不平不満を口にすると云う心持をその心に持たせると、人間それ自身を不幸にする場合が多く招来されて、決してその心的態度から幸福と云うものは発生しないのである。と云うのは直接的には判断力断行力更に精神力と云うものがどんどん委縮減退し、間接的には体力や胆力果ては精力まで其の良くない影響が波及されて、結論的に言うと生命力の一切が劣弱になってしまうのである。

*二四日 内省検討と暗示分析

病難に際し又は運命難に直面した場合には平素充分心身統一法の理解に透徹していると思っても、そう云う場合修養未完成の人はその事柄に引きずられて知らず知らず心の平安を失いその結果独立自尊と云う尊厳な立場から他力依存と云う勝階級の極めて低劣な方面へと自己の心的態度を転移して、無益な焦燥と混迷を敢えて為すと云う愚行を行う恐れがない訳では無いから、そういう場合に更にさらに入念周到に内省検討と暗示分析とを実行して心境の浄化清純に努力されるよう心より付言する。

*二七日 運命について

運命には二種類ある。天命と宿命である。店名は絶対で宿命は相対的である。如何にも仕様の無い運命を天命と云い人間の力で打ち開く事の出来るものを宿命と云う。女が女に生れ男が男に生れたのは天命である。りどうする事も出来ない。処が今の人は打ち開く事の出来る宿命にぶつかった時でも其れを天命と云う。自分の努力が足らない事は棚に挙げて如何にも仕様 がないと云う。

*二九日 世の爲人の為

富や地位を造って自分の人生欲望だけを十二分に満たす事已を想像すると云う事は断然排斥すべき向下的想像だ。宜しく健康想像と同様に金を造って、人の世の爲に尽す仕事を仕様と斯うなりゃ本物だ。又そうしなかったらその人にどんなに金が出来てもその金はその人に本当に安定した幸福を感じさせないんだよ。モデルが完全であってこそ作品も完全だ。想像は詰る所人生形成のモデルなんだ。

努力は報われることも・・🙀

NPO法人あおぞら

外猫・街猫との付き合い方は

何処でも、いつでも起こるトラブルとして、外猫・街猫へのえさやりの問題があります。
その点、ここ北九州の門司港は割と住民の皆様、外猫・街猫・地域猫に対しては鷹揚な対応をしてくれているようです。
一つは、住民の方々が、自ら避妊去勢手術等々の活動を個人的にまた、地域として取り組んでいることもあるのでしょう。

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それでも、矢張り無責任なえさやりさんのことが時々聞こえてくることもあります。折角の命を守ってあげようという善意の行い❣❢
出来ればマナーを守って行って頂ければ、お互い気持ちよく環境も守れるのではと思います。


先日、沖縄県議のえさやり禁止条例について、反対の声をあげられ署名活動を展開された「どうぶつ基金」さんからその後の経過の事がアップされていました。
唯、餌ヤリ禁止するのは悪いというだけではなく、外猫・街猫たちへのえさのやり方等々を提案して改善案を求めていると云う事です。

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ここでも、やはりポイントとなるのは「えさやりさんのマナー向上」は勿論のこと、飼い猫・地域猫・外猫等々に拘わらず、猫達に関わる方々の意識向上が重要と云う事のようですね。
猫達に責任があるというのではなく、関わるヒトに責任があるという自覚が大切な様です。

もうひとつ、云えば、現状では、外猫・街猫達の状況をある程度コントロールしてあげ、住みやすくしていく為にも避妊去勢も必要なこと。
行政による、相談窓口や資金的援助等々、積極的なバックアップ体制が出来上がれば完璧❣❢

こういった努力が報われて、猫達の命が守られれば嬉しいですね~(=^・^=)

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北九州 アニマイル動物診療所
公益財団法人 日本動物愛護協会 (jspca.or.jp)

公益財団法人 どうぶつ基金の報告内容


「沖縄県動物の愛護及び管理に関する条例(案)」
に関する意見交換会議事録


2 月 14 日沖縄県環境部自然保護課課長と主任技師が兵庫県芦屋市のどうぶつ基金事務局を訪れ「沖縄県動物の愛護及び管理に関する条例(案)」に関する意見交換会議が行われました。
まず最初に沖縄県からはパブリックコメントや署名、要望を受けたうえで以下の改定案が示されました。
沖縄県が示した改定された現行案 (2024 年 1 月 31 日)

第 10 条  所有者又は占有者を確知することができない猫に給餌及び給水(以下「給餌等」という。)を行う者は、生殖を不能にする手術を施した又は施すことを予定している猫その他規則で定める猫を対象として、容器を用いて給餌等を行うものとし、給餌等を行った後は速やかに飼料等を回収するものとするほか、周辺住民の生活環境に支障を生じさせることがないようにこれを行わなけれはならない。

どうぶつ基金からの提案
 猫が増える原因を作った犯人は餌やりさんではなく「無責任な飼い主」である。県は「無責任な餌やりさん」という言葉を多用しているが、そもそもお腹が減って可哀想なノラ猫に餌を与える行為は動愛法に基づいた行為である。そこには何の責任も伴わない。
ノラ猫が増える原因は、飼い猫を捨てたり、外を徘徊させ繁殖させた「無責任な飼い主」に、あるのは明らかである。

以上を踏まえて、どうぶつ基金から以下を沖縄県に提案した。
上記の現行案では「餌やりさん」の自己負担で不妊手術を求める内容となっており、住民同士の対立や「餌やりさん」へのいじめを招く懸念がある。そこで、以下のような内容を盛り込むことを提案。

1.     現行案の訂正案
第 10 条 所有者又は占有者を確知することができない猫に給餌及び給水(以下「給餌等」という。)を行う者は、容器を用いて給餌等を行うものとし、給餌等を行った後は速やかに飼料等を回収するものとするほか、周辺住民の生活環境に支障を生じさせることがないようにこれを行わなけれはならない。

2.     上記訂正案とは別に以下のような内容の条項を定める提案をしました。

o   市民は未手術の猫を見かけたら行政に報告し、県の動物愛護センターやどうぶつ基金さくらねこ無料不妊手術事業の制度を利用すれば、無料で不妊手術が受けられるので、猫ボランティアと協力してTNRを進める。

o   無責任な飼い主に対して厳しく対応する。ただし、屋内飼養の徹底は、沖縄という風土や県民性から実現不可能であるので、努力目標程度にとどめる。飼い主による飼い猫のマイクロチップ登録と不妊手術の義務化を徹底し、繁殖を望むものは登録許可制にするような仕組みづくりを要望する。

o   不妊手術予定のノラ猫と不妊手術の予定がないノラ猫の区別をすることは不可能である。また、どちらの猫も愛護動物であり保護される存在である。そのため、A、不妊手術済みまたは予定の猫と、B、不妊手術予定のない猫を区別して、餌やりの可否を付けるべきではない。

2時間にわたる会議では非常に有意義な意見交換ができたと思います。沖縄県もどうぶつ基金も「野良猫に関連して起きる問題を解決したい。」という同じ目標を持っており、今後もより良い制度設計ができるように話し合いを続けていきたいと思います。

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議事録はこちらから