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凡人が思う法華経の世界

法華経の世界とはいったいどんな世界なんでしょうか?

法華経には法華経それ自体の経文は書かれていないという方がいらっしゃいます。いわば法華経の宣伝パンフレット。法華経の中では肝心の中味は語られていず素晴らしい教えだとだけ伝えるいわば偉大なる予告編だということです。

経文の字面だけをおっていけば確かにそう思えないこともありません。    左脳で思考を重ねる頭脳明晰なインテリジェンスが多く陥りやすい考えなのかもしれませんね。

白隠禅師

これは現代に限ったことではなく、江戸時代の明晰な頭脳の持ち主、名僧白隠禅師も、若いころは法華経を比喩ばかりだとあまり重要視はしていなかったようです。しかし、伝記によると40歳を過ぎたころのある秋の日暮れ、弟子に法華経譬喩品を看経させていた折、螽斯(蛬⁻コオロギ)の声に触発たかのように、突然に法華経の世界が目の前に広がり忽ちに悔悟したといわれています。

その時、白隠禅師は豁然として現れた法華経王の世界を目の当たりに、感極まって声を上げ大泣きに泣いたと記されています。(紀野一義⁻法華経を読むから)

石原慎太郎氏の体験

なぜ聖徳太子の時代から現代まで千数百年にわたって、仏教界だけでなく広く文学にもいろいろな形で影響を与え、一般の人々の間にも読み継がれてきているのでしょう。

法華経には日本人の感性を刺激し心の奥底に眠っている何ものかを揺さぶり起こすようなものが経文の底に潜んでいるのでしょうか?

そういう法華経をただひたすらに読誦していると時として凡人でも法華経の世界が垣間見えることがあるらしい。石原慎太郎氏は決して凡人ではないが彼もその奥深い深淵にちょっと触れることができた経験があると、彼の著書「法華経を生きる」の中は、その時の経験が書かれています。

凡人もほんとうに切羽詰まったとき、窮地に落ちいったときなどには思いもかけない能力を発揮することがあります。そのような状況になったとき常日頃、法華経に親しんでいるとちょっと、その世界を垣間見ることが出来るのかもしれません。また、そこまではっきりではないにしろ知らず知らずに、方向を過たず進むことが出来るのかもしれません。

石原慎太郎氏は東京都知事選に出馬した時にその経験をされた様です。本の内容によりますと出馬を決めた後、いろんなことに思い悩んでいたある日、日課の法華経を開きその比喩品をよんでいる時に、突然のひらめきに襲われ進むべき方向性、決意が固まったというようなことが書かれています。

凡人の願い

法華経の経文の一字一字のことばの奥に本当の法華経の世界が広がっているのでしょう。それは経文を頭で理解しようとしても見ることは出来ず、いわば無心に読誦する中で無の心・無の境地に至ったときに屹度、忽然としてあらわれてくる世界なのでしょう。

法華経最後の「妙法蓮華経普賢菩薩勧發品第二十八」には法華経を得るための四つの方法が書かれています。 

  • 諸仏に御念せらるること
  • 諸々の徳本を植えること
  • 正定聚に入ること
  • 一切衆生を救う心を起こすこと

これらの修業を実行すればおのずと法華経の世界へ入ることが出来るということらしいですが、どこかに欲の皮の突っ張った現世利益を待ち望んでいる心が見え隠れしているようでは、到底本当の法華経の世界に入ることなどはできないでしょうが・・・・

しかし、此れも「凡人の性」、致し方ありません。

因みに徳本とは 仏となる為のあらゆる善のことを徳といい、その根本となる智慧を本という(岩波文庫法華経注より) とのことまた、正定聚とは 必ずさとりを開いて仏になることが 正 (まさ)しく 定 まっているともがら ( 聚 )のこと。  一般には 菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの 十地 の初地である 歓喜地 を正定聚ということらしいです。

凡人には、とてもとても遠い世界のように思えてきますが、それでも法華経は読み続ることにしています。いつかその世界の片鱗でも垣間見ることが出来ることを願って・・・

等覚一転名字妙覚 なることを信じて❕❕

担当:野尻研究員

十羅刹女・鬼子母 陀羅尼呪

伊提履 伊提泯 伊提履 阿提履 伊提履 泥履 泥履 泥履 泥履 泥履 楼醯 楼醯 楼醯 楼醯 多醯 多醯 多醯 兜醯 莬醯