安岡正篤著
はじめに
縁尋機妙 多逢勝因
良い縁はさらに良い縁を尋ねて発展してく将に、その機(出会い)は妙なるものがある 之を縁尋機妙という いい人と交わっていれば良い結果に恵まれる 此れを多逢勝因という ヒトだけではなく出来るだけいい機会・いい場所・いい書物に出会うことを考えねばならない。とは安岡正篤師の言葉。
此の書物の題名を見たときに直観的に思ったのは、是はもしかしたら空海さんの「三教指帰」を意識されたのかなということ。関係ある無しは別にしてこれらの考え方は、日本古来から人を救う道として敷衍されてきた思想。
現実主義的思考実践法から形而上的思考実践へ 人の心の中を垂直に深く深く掘り下げていく考え方で、それぞれの指針になる方法が、論語☞老子☞禅 なのかもしれませんネ。
この本の中から、好きなところをピックアップしてみたいと思っています。 まずは「論語」の冒頭部分から・・・
論語ー綸語・輪語・円珠経
さて、論語は此れ世人が余り知らないかと思いますが、別名を綸語と云い、また輪語、或いは円珠経とも言うております。何故綸語と云い、輪語・円珠経と言うのかと申しますと、これがまた大変深い意味があり、味わいがある。昔から論語の参考書と云えば、先ず第一に挙げられるのが六朝時代の大学者、皇侃オウガンの「論語義疏」でありますが、其れに依ると漢代に鄭玄ジョウゲンという学者がおって、世務を経綸することが出来る書物だと云ったことろから、綸語と云う語ができたとし、又其の説く処は、円転極まり無き事車輪の如しというので、輪語と云うのだと註釈しております。 更に円珠経については鏡を引用して、鏡はいくら大きくても一面しか照らさないが、珠は一寸四方の小さいものでも、上下四方を照らす。諸家の学説は鏡の如きもので、一面を照らすが四方を照らすことはできない。 そこへ行くと論語は正に円なる珠と同じで、上下四方円通極まりなきものである。と云う所から円珠経と言うたのだと述べられております。
これは、論語の講義第一講の冒頭からの引用です。 要は論語は読み手次第、読み方次第で 仕事に関係なく 時代に関係なく、すべての人の折々に進むべき方向を示してくれる書物ということになるのでしょうか。あとは論語の内容を自身の事としてどう読み込むことが出来るかということでしょう。
では、第一講の最後の部分をご紹介します。
命と礼と言
不知命無以為君子也 不知禮無以立也 不知言無以知人也(堯 曰) 命を知るらずんば以て君子無きなり 礼を知らずんば以て立つ無きなり 言を知らずんば以て人を知る無きなり
・・・言は今日で言うと所謂思想・言論でありまして、其の思想・言論というものの本当の事がわからなければ、人を知ることが出来ない、人間の世界がわからないという事であります。先程も申しました様に、戦後は思想・言論、特にイデオロギーが長い間巾を効かせてきたのでありますが、漸くこの頃になってイデオロギーの終焉ということが言われる様になり、マルクス・レーニン主義であろうが、民主主義・自由主義であろうが、単なるイデオロギーだけでは人は救われない。本当の文明は栄えない。と言うことがはっきりと論述されるようになってきた。孟子は「吾れ言を知る」というておるが、今にして初めて成程そうなのだとしみじみ思う。 孟子はその言を解して四つ挙げておる。 詖辞 偏った言葉、概念的・論理的に自分の都合の好い様につける理屈。 淫辞 濫りがわしい言葉、淫は物事に執念深く耽溺すること。丁度中共理論の如 きもので、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすること。 邪辞 よこしまな言葉、邪な心からつける理屈。 遁辞 逃げ口上。
此の頃の過激派学生などは皆、邪辞・淫辞ばかり言うておる。大学教授や進歩的文化人と云った連中は専ら遁辞陀ります。今は詖淫邪遁の言が一斉に流行しておると言うて宜しい。こういう時こそ論語や孟子を読んで、しみじみ会得するというか、啓発されることが大事であります。 現代を最もよく把握し、最も正しい結論を得ようと思えば、論語でも充分であるというても決して過言ではありません。只、皆がそう読まないだけの事であります。論語を知らぬものは無い、又、読まぬ者はないけれども、だいたいは論語読みの論語知らずに終わっておる。是は決して他人を責めるのではない、お互いにそうだということです。 そうして本当の事が良く判らぬ人間が集まって、てんやわんやと騒いでおる、と言うのが今日の時代であります。そこでこの時代、この人類は如何にすれば救われるかとなると、やはり学ばなければならない。正に論語に云う通り「学に如かざるなり」であります。終日物思えども何にもならん、お互いに大いに学ぼうではないか。之を講義の結論に致します。
この本が刊行されたのは、昭和58年の初版、其れ迄の師友會の講演内容から抜粋まとめたもの。 現代は昭和・平成は終わり令和の時代となっていますが、師の言葉の中に在るように「本当の事が良く判らぬ人間が集まって、てんやわんやと騒いでおる」という状況は、全くそのころと同じ否、寧ろ酷くなっているのではと感じます。当時は曲がりなりにも論語等を紐解く方々も多くいらっしゃたでしょうが、現代果たしてどれだけの人が論語等の書籍に触れているでしょうか。「論語読みの論語知らず」という言葉さえ死語となりつつあるのではないでしょうか。 安岡正篤師は論現実社会社会の問題解決に最も有効な書だと紹介しています。 今一度真剣に教育のあり方をはじめすべての面の見直しが必要な時ではと思います。松下幸之助翁も「知識はいくら持っていても人間の心乃ち、良心が養われなければ、そういう悪い方面に心が働き知識はかえって仇を成す」と言っています。現代、教育の第一歩は徳育、知識はそのあとにということでしょうか。
明治次第の経済界の巨人渋沢栄一は多くの西欧の文化制度を採り入れながら近代経済国家の構築にまい進されたのですが、ご存じの様に其根本理念として根底に据えていたのは「論語」です。此の一事からも、論語は単なる道徳書ではない事がわかる筈、要は、どれだけ自分のこととして読み解くことができるかということなのでしょう。 論語は決して古い思想の書物ではない。社会的歪の大きくなってきている現代こそ最も必要な本なのではないでしょうか。
最後にこの「論語・老子・禅」の論語の部分でも、アポロ11号の月着陸の言及しているところがありますが、松下幸之助翁もこの本と同じころに出版された、「続・PHP道をひらく」の中でアポロ11号の事に触れ人の心について語った記事がありましたので引用いたします。
人心の深淵
人類が月を歩いたのは、所謂科学の偉大な勝利だともいわれているけれど、その価額を駆使したのは人間で、人間あっての科学ということを考えれば、つまりこれは人間のそして人類の偉大な成果だということになる。どこの国の誰が成功しようとも、其れは長い歴史のなかの数知れぬ人間の願いと知恵と体験が積み重なった結果であって、其の事を思えば、お互いに人類の一員として肩をたたいて素直に喜びあい、人間としての誇りを改めて持ち直してもよいであろう。 そんな偉大な人間が、今もなお測り兼ね、開発しきれないでいるのが、わが心の動きである。人の心の深淵である。ともすれば、捉われた心でヒトを責め、他を罵り嫉みと恨みに自他ともに傷つく。吾れさえ好ければの思いで、如何して人心の開発が図られるであろう。 月と共にわが心、人間の心にもアポロを打ち上げて、人心の深淵を究めつくし、、その開発を謀って自他ともに栄え合う真の人の世を生み出したい。人類の、そして一人ひとりの一番大事な課題であろう。
言うまでも無く、科学だけでは人の心は開発できるものではありません。極論すればアポロに変わるものが「論語」であると安岡正篤師は教えてくれてます。
次回もこの著書から紹介をしていきたいと思います。