タグ別アーカイブ: #梅原猛

哲学者と物理学者のみる俳句

哲学者にとっての俳句とは・・・

河合隼雄 「全対話」Ⅱ ―ユング心理学と東洋思想―

 第三文明者発刊 初版1989年(H元年)6月16日初版発刊

ユング深層心理学の日本における第一人者、河合隼雄先生の対談集

各分野の第一人者が、ユング心理学をどうとらえているかを、対談を通して語る面白い著書・・・・

対談:河合隼雄―梅原猛

「日本人は仏をどううけとめてきたか」

そのなかの一節に、梅原日本学とも言われるジャンルを確立した、哲学者梅原猛が俳句について語る部分がある。

哲学者の捉えた俳句とはいかなるものか。

「ぼくはね、俳句というほどつまらん芸術はないと思っていた。ぼくの学生時代に、桑原先生は第二芸術って言ったけど、ぼくは第二芸術でもよすぎて、あれは第四芸術だと思っていたんですよ。何故かと言うと、十七字で人生の真実を述べられるはずはない。而もその中に、なんで季節の言葉を入れなくちゃならないか。季節の言葉なんて不自由なものが僅か十七字の中には入っているのは困ったものだというふうに思ってたんですよ。だけど、今は考えが違ってきた。やっぱり俳句というのは日本の文学の終局の完成体だと。それはただ季節の文学と云うんじゃなくて、人生そのものが大きな循環の中にある。すべての生きとし生けるものはそういう循環の中にいる。そう云う哲学が俳句の背後にある。そう云う宇宙の大循環の中にある生きとし生けるものを十七字で象徴的に表現するんだと思う様になった。どうもこのごろは、第四芸術どころか、第一芸術だと、ぼくは考えをあらためるようになったんですけどね。(笑)」

※ 第二芸術論 とは

岩波書店の雑誌『世界』1946年11月号に掲載された桑原武夫の論文

俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべきと論じたものであり、当時の俳壇に大きな論争を引き起こした 近代化している現実の人生はもはや俳句という形式には盛り込みえず、「老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい」ものとして、強いて芸術の名を使うのであれば「第二芸術」として区別し、学校教育からは締め出すべきだという結論を導き出している

一方、1976年の講談社学術文庫版において、桑原は「第二芸術」発表当時、西欧中心主義への反省が欠如していたと回想している

※ 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 – 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 (以上 ネットウィキペディアより)

私見:桑原先生の、俳句第二芸術論は、敗戦という日本の状況から、ある意味、国内での価値の反転現象が起こり日本の伝統的文化思想は何でもかんでも有害無価値なものという様な意識が、特に先進的知識人の中に芽生えていたのかも。其の有識者たちの西欧へのあこがれが先行し過ぎた結果生まれたものとも云えなくもないと思う。

次に科学者物理学者の捉えた俳句とは・・

寺田寅彦「俳句と地球物理」からの一文

Ⅲ章 俳句と宇宙―天文と俳句より

芭蕉の句を例にとり科学者の目で鑑賞した面白い一文・・

・・・・・

 「あかあかと日はつれなくも秋の風 」 松尾芭蕉

と言う句がある。秋も稍更けて北西の季節風が次第に卓越して来ると本州中部は常に高気圧に蔽われて空気は次第に乾燥して来る。すると気層は其の乾燥度を増して、特に雨の後など一層そうである。それで大気を透して来る紫外線に富んだ日光の、乾燥した皮膚に対する感触には、一種名状し難いものがある。

そうしてそれに習々たる秋風の感触の加わった場合に此等のあらゆる実感の複合系⁻コンプレキスを唯十七字で云い尽くせと云われたとして巧みに此れを仕遂げ得る人は稀であろう。それをすらすらと言いおおせたのが此句であると思う。それだから、凡ての佳い句がそうである様に、此句も亦一方では科学的な真実を捕えて居る上に、更に散文的な言葉で現し難い感覚的な心理を如実に描写して居るのである。此句の「あかあか」は決して「赤々」ではなくて、からからと明るく乾き切り澄み切って「つれない」のである。而も「つれない」のは日光だけでもなく又秋風だけでもなく、此処に描出された世界全体がつれないのである。

斯う云う複雑なものを唯十七字に「頭よりすらすらと云ひ下し来」て正に「黄金を打のべたやう」である。ところが正岡子規は句解大成と言う書に此句に対して引用された「須磨は暮れ明石の方はあかあかと日はつれなくも秋風ぞ吹く」と云う古歌があるからと云って、芭蕉の句を剽窃であるに過ぎずと評し、一文の価値もなしと云い、又仮に剽窃でなく創意であっても猶平々凡々であり、「つれなくも」の一語は無用で此句のたるみであると云い、寧ろ「あかあかと日の入る山の秋の風」とする方が或いは可ならんかと云って居る。

併し自分の考は大分違うやうである。此の通りの古歌が本当にあったとして、これを芭蕉の句と並べて見ると「須磨」や「明石」や「吹く」の字が無駄な蛇足であるのみか、此等がある為に却って芭蕉の句から感じる様な「さび」も「しおり」も悉く抜けてしまって残るのは平凡な概念的の趣向だけである。

この一例は、俳句と云うものが映画で所謂カッティングと同様な芸術的才能を要するという事の適例であろう。平凡なニュース映画の中の幾呎かを適当に切取ることによって、それは立派な芸術映画の一つのショットになり得る。一枝の野梅でも此れを切取って活ける活け方によって、其れが見事な活花になるのと一般である。・・・・

  • 私見 : つれなくも:季節の移り変わりの無常観をあらわすと同時に、知人である俳人(小杉一笑)の死を悼む心情をも含む語か
  • しほりーしをり : 
  • 〈萎(しを)る〉の連用形というのが通説であるが,近年〈湿(しほ)る〉の意に解すべきだという説がある。蕉門俳論では〈しほり〉と表記するのが一般的。去来は〈しほり〉は〈一句の句がら〉〈一句の姿〉〈一句の余情〉にあるという。また《俳諧問答》では〈しほりと憐れなる句は別なり。ただ内に根ざして外にあらはるゝものなり〉とも言っている。これらによれば〈しほり〉ある句は,憐れなる句と句がら,姿,余情において近似したところがあるとみられる。早く中世の能楽,連歌で,わが身を愚鈍と思い侘(わ)ぶ心から発した〈しをれたる風体〉というのがあるが,そのような心理から,すべての物にあわれを感じ,それをさらりと余情に反映させた場合の句を〈しほりある句〉というのである。芭蕉は許六の句〈十団子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風〉を〈此句しほりあり〉と評したという。これは〈秋の風〉のあわれを〈小粒になりぬ〉という言葉で,句の姿,余情にさらりと表現した手腕を褒めたものであろう。 執筆者:堀 信夫 ウィキペディアより

松尾芭蕉が、俳聖と云われる存在ならば、正岡子規は近代俳諧の父とも云うべき存在であろうか。その正岡子規の、論評を、科学者の目で捉えた解釈で真っ向から反論しているのは、同時代を生きた物理学者者として又文学者としての気概が感じられて面白い。とは言え、子規を完全に否定しているのではなくおなじこの章の他の個所では、敬意を表している部分もある。認める処は認めているわけですね~

また、一般的には、この句と比較される短歌としては、古今和歌集で藤原敏行朝臣が詠んだ「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」があげられることが多いようです。

正岡子規(1867―1902)寺田寅彦(1878-1935)



因みに、寅彦の言う蛇足にはなりますが、私にとって「あかあか」と詠んだ短歌で秀逸と思う歌は鎌倉時代華厳宗僧侶・明恵上人の歌

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」                                (=^・^=)