松尾芭蕉句集からⅡ

新潮社古典文学集成芭蕉句集解説(今栄蔵筆)より抜粋1982年(S57)6/10初版

新潮社古典文学集成「松尾芭蕉句集」の今栄蔵氏の解説を引用しながら、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の、作風の変化を年代を追って並べてみました。今回はその2回目です。

文脈は一部入れ替えた部分有、年代がなるべく時系列で追える様に本文にはない年号を記入するとともに本文にない見出しを付した。

宗因風(談林)-  西山宗因(肥後生大阪の連歌師匠)

※ 延宝(1672~80)元年前後から約10年間

寛文十三年(1672)春 29歳 芭蕉江戸へ居住を移す

貞門風俳諧のマンネリ化に変わるものとして西山宗因が提唱(芭蕉江戸移住の頃)宗因は貞徳の様に連歌に近づける事で俳諧の地位向上を図ろうなどとは考えず、寧ろ俳諧は俳諧なりに本来の通俗と滑稽に徹すべきものだとした。

その手本として室町期の「守武千句」に求めた。

守武千句の特徴は、非論理・反常識の意外性から醸し出される強烈な滑稽味にある

 瘡の治るは平家なりけり     カサノナオルハヘイケナリケリ

 幼いに大原御幸や飲ますらん   オサナイニオオハラゴコウヤノマスラン

貞門風の微弱な滑稽に取って代わるものとして既に寛文年中から人気を集め寛文末には熱烈な支持を受けていた。

芭蕉が江戸へ移った翌年寛文十三年(九月延宝改元)、大阪の井原西鶴がこの風を推進、延宝の末ごろまで全盛期を展開する。

芭蕉も亦、この新情勢に棹さした。

  • 宗因風の特徴:寓言ともじり

「抑々俳諧の道、虚を先として実を後とす」「俳諧は寓言ならし。荘周が文章に習ひ守武が余風を仰がざらんや」(宗因)

寓言→大言壮語 

もじり→本歌本説の文句を逐語的にもじるもの&その主旨、趣向をもじるもの

井原西鶴「富士の煙に茶釜を仕掛け、湖を手盥に見立て、目の覚めたる作意」

宗因例句

  1. 車胤が窓今この席に飛ばされたり 宗因 シャインガマド イマコノセキニ トバサレタリ
  2. 鹿を追ふ猟師か今朝の八重霞   舟中 シカヲオフ ショウシカケサノ ヤヘガスミ

{宗因風芭蕉句例}(本文54~135番収録)中期1

天秤や京江戸かけて千代の春   (58)    テンビンヤ キョウエドカケテ チヨノハル

猫の妻竈の崩れより通ひけり   (71)    ネコノツマ ヘツヒノクズレ ヨリカヨヒケリ

秋来にけり耳を訪ねて枕の風   (79)    アキキニケリ ミミヲタズネテ マクラノカゼ

甲比丹もつくばはせけり君が春  (92)    カピタンモ ツクバハセケリ キミガカゼ

二日酔ひものかは花のあるあひだ (130)    フツカヨヒ モノカハハナノ アルアヒダ

転換期:天和元年―天和三年☞模索1(1681-1683)頃 38歳―40歳

延宝期(1673~1680)の俳壇を風靡した宗因風もすでに大きなマンネリズムの壁に突き当たっていた。その本質的原因は、言葉の機知の新しさを命の綱と頼む言語遊戯俳諧が、二百年に及ぶ歴史の中で、手を替え品を変えて繰り返されてきた結果、もはや打つべき新しい手を見出せなくなったところにある。

その結果新流行となったのが極端な破調句、漢詩文調、倒語趣味、晦渋さを衒テラう謎句等々の風潮である。

転換期例句

 花を被づく時や枯れたる柴嬶の歩みも若木に返る大原女の姿

  ハナヲカヅクトクヤ カレタルシバカカノアユミモ ワカギニカエルオオハラメノスガタ

 稲磨歌 妹乎鶏塒乃羽々幾 明奴良牟加毛

  イネスリウタ イモガトキノハバタタキ  アケヌラムカモ

所詮は宗因風と同じ言語遊戯の舞台の上で惟多少の衣装を替えて躍っていたに等しく取っつきやすい末梢的な形式面に新奇を求めていたに過ぎず、其処には何の理念もなかった。

【転換期芭蕉句例】(本文112~189蕃収録)中期2

この期の芭蕉の作品で注目しなければならないのは、同じ時流の中に在りながらも其に他の俳人に見られない著しい特色が現れていること、具体的に言えば、自己の境涯を深く見詰める主情的な作が急に目立って多くなっていること。

柴の戸に茶を木の葉掻く嵐哉  (123)    シバノトニ チャヲコノハカク アラシカナ

櫓の声波ヲ打って腸氷ル夜や涙  (126)    ロノコエヲ マミウッテハラワタコオル ヨヤナミダ

  雪の朝独リ干鮭を噛み得タリ    (127)     ユキノアサ ヒトリカラザケヲ カミエタリ

  石枯れて水しぼめるや冬もなし (128)    イシカレテ ミズシボメルヤ フユモナシ

 餅を夢に折り結ぶ歯朶の草枕  (136)    モチヲユメニ オリムスブシダノ クサマクラ

  五月雨に鶴の足短くなれり   (143)    サミダレニ ツルノアシ ミジカクナレリ

愚に暗く茨を掴む蛍かな    (144)    グニクラク イバラヲツカム ホタルカナ 

夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて(146)    ユウガオノ シロクヨルノコウカニ シソクトリテ

侘びてすめ月侘斎が奈良茶歌  (147)    ワビテスメ ツキワビサイガ ナラチャウタ

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉 (148)    バセウノワキシテ タライニアメヲ キクヨカナ

氷苦く偃鼠が喉をうるほせり  (150)    コオリニガク エンソガノドヲ ウルホセリ

  暮れ暮れて餅を木魂の侘寝哉  (151)    クレクレテ モチヲコダマノ ワビネカナ

  髭風ヲ吹いて暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ (159)     ヒゲカゼヲ フイテボシュウタンズルハ タガコゾ

花にうき世我が酒白く飯黒し  (164)    ハナニウキヨ ワガサケシロク メシクロシ

重要な事は是が作風の新しさを狙うという様な、単なる観念先行の作意から生まれたのもではなく、実生活の現実体験に触発されて起こった、巧まざる実感の声だったと言う事である。観念や言語概念の弄びとは異質の生きる人間的実感の目覚め。これぞ正しく「誠の俳諧」の原点、芭蕉文学の将来を卜する重要な分岐点に他ならなかった。

つづく

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