仙英禅師と井伊直弼
古い雑誌ー1991年年7月号のプレジデントの特集記事「仏典のこころ」を読むのなかにあった作家新井栄生執筆「井伊直弼と正法眼蔵ー受身捨身ともに布施が支えた開国の決断」の中にある言葉です。
井伊直弼といえば「安政の大獄」や「桜田門外の変」などでよく知られている幕末、歴史を動かした重要人物の一人。舟橋聖一の小説「花の生涯」や今、放映中のNHK大河ドラマ「晴天を衝く」にも登場しているので好き嫌いはあるでしょうが歴史上の人物としてよく知られている存在ですね。
直弼は第11代彦根藩主直中の15番目の子として1814年生、幼少は非常に恵まれた状況で教育修練もしっかりと薫育されて育ちます。が、直中がなくなってから暫く続くいわゆる埋木舎の時代と言われる不遇の時代を経て、運命の悪戯かあるいは天の配剤なのか、直弼は1850年思いもかけず彦根藩主の座につき、ペリー来航に揺れる江戸幕府の重責をも担うこととなった訳ですね。
開国を迫るペリーに対しいかに対処すべきか迷っていた直弼は、彼の禅の師父である彦根清澄寺の住職仙英禅師に密かに手紙を出し、黒船退散の祈祷を依頼するとともにいかに対処すべきか尋ねています。その返答の手紙で仙英禅師は「安心脱生死大丈夫」と云う言葉で直弼を叱咤するわけです。本文にも引用されているその手紙の内容の一部はー異国船降伏祈願は承知したという後に以下の文言が記されていたそうです。
「抑佛道之秘術密法之降伏一切大魔最勝 成就ト申候ハ 御前、先年御修終被遊 三関六転語之外別無御坐候。凡王道佛道武道儒道惣萬億之秘術密法修行ト申所ハ悉皆極中極ニ至候ニハ安心脱生死大丈夫ヨリ外更無之事奉存候・・・」
直弼は仙英禅師の元、既に禅曹洞宗悟道允許を得、迷いを断ち切ってはいたもののこの国家の一大事にやはりいささかの揺らぎが生じていたのでしょう。しかしこの手紙を得て即座に決断、攘夷に傾いていた世論を廃し開国の献策を決意断行することに、なるわけです。「安心脱生死大丈夫」とは物事にとらわれない自然な心で生とか死とかも超越し仏の道を行うもの(解著者)ということとのこと。
その後直弼は、正法眼蔵にいう「受身捨身ともに布施なり」の言葉通り生きることも死ぬこともみな布施であるという境地で、当時においては、強権ともいえる政策を断行しいわば近代日本の基礎を築いたともいえるのではないでしょうか。
こういう話を聞いたり読んだりしますと、つくづく覚悟を決めた人間・達観した人間の力のもの凄さというものを痛感いたします。現代、命を懸けて事に当たっているといえる政治家がいかほどいるのでしょうか?甚だ疑問❕