百朝集47章
少くして学べば壮にして為すあり 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば朽ちず 佐藤一斎「言志晩録」
安岡正篤解
若い者の怠けて勉学せぬものを見る程、不快なものはない。碌なものにならぬことは言うまでもないが、まあまあ余程の碌で無でなければそれ相応に勉強する志ぐらいはあるものである。壮年になると、もう学ばぬ者、学ぼうともせぬ者が随分多い。生活に遂われて忙殺されておる間に、だんだん志まで失ってしまうのである。そうすると案外老衰が早く来る。所謂若朽である。肉体だけは頑強でも精神が呆けてしまう。反対に能く学ぶ人は老来益々妙である。但し学も心性の学を肝腎とする。雑学では駄目である。古詩bにいう通り「少壮努力せずば、老大徒に傷悲せん」こと間違い無い。でなければ呆けたのである。これに反して、老来益々学道に精進する姿ほど、尊いものはない。細井平洲も敬重した川越在の郷長老奥貫友山の歌に「道を聞く夕に死すとも可なりとの言葉にすがる老の日暮らし」こうありたいものである。そして「老獪晴天に参す」るようなのは実に好いではないか。
松下幸之助「一日一話」3月17日項
修養に場所を選ぶな
人は若い時の心がけ如何に拠り後に随分差 の生じるものである。若し若い時代に自己実力の養成に励まず修養に努めなかったならば、必ず後年後悔をする時が来ると思う。然るに若い人の間では、この仕事は自分に合わないあの主任の下ではどうも働き甲斐がないと、不足を漏らす人がある。これは自己中心のものの考え方の弊害であろう。真に自己の適所を見出す迄には色々経験を積まなければならない。又性格意見の異なった指導者の下で自己を磨く事によってこそ、却ってよりよく修養が得られるものであることを深く知らなければならないと思う。
学ぶことは意思さえあれば、いつからでも、どこででも始められる。時間がないというのは、いいわけに過ぎないと安岡正篤師も松下幸之助翁も多分 いうことでしょう(*^_^*)