百朝集第48章
一年の計は穀を植うるに如くは無し
十年の計は樹を植うるに如くは無し
終身の計は人を植うるに如くは無し
管子ー権修
解 題
太宰春台の「産語」‐神谷正男教授の精細な研究があるーは
今日の経済思想の失っている根本を説いた好書であるがその
中に衛国の君が蒲という処に出かけて、松の木の苗を植えて
いる老大に教えられた面白い話を引いておる。
「衛の君 蒲の野を観る。一老父の多く苗松を栽うる者有る
を見る。喘息して拮据す。衛君従って之に問ひて曰く,老父
罷めよ。汝 奚ぞ以て苗松を栽うることを為すか。對へて
曰く 将に以て棟梁と為さんとす。衛君曰く 老父の年幾
何か。曰く 八十有五。衛君笑うて曰く 此の松材と成る
べきも老父能く之を用いんか。老父栽うるを罷め仰いで衛
君を視て曰く 樹木は用を百年の後に待つ也。君以て必ず
其の世に於いて之を用いんと為す乎。嗚呼君の言何ぞ國を
有る者に似ざるの甚だしき。小人老耄して死に幾しと雖も
独り子孫の計を為さざらんやよ。衛君大いに慙じ謝して曰
く 寡人過てり。請ふ善言を師とせんと。因って之を労ふ
に酒食を持ってす。詩に云はく厥の孫謀を貽し以て翼子を
燕んずと。
善い後継者を用意しておくと云う事が何に拠らず一番
賢明な長久の計であるが近来はそう云う心掛けが著し
く薄れて、個人主義・利己主義・その場塞ぎになって
いるようである。自分が築き上げた存在と云うより
寄合所帯の集団組織が多くなった所為もあろうがそれ
は存在を最も不安定にし脆弱にする。斯う云う教訓も
事業家特に真剣に考慮し反省せねばならぬ問題である。
安岡正篤解
☆太宰春台➡1680-1747江戸中期の儒学者 荻生徂徠
の門下生で儒学経世家:著作「産語」「経済録」等
現代の日本にこの三樹の教えは活かされているのでしょうか?
全ての面に於いて甚だ疑問を感じる時もありますが・・・・
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