運・時・命・数

百朝集87章

治乱は運なり 之に乗るもの有り之を革むる者あり

窮達は時なり 之を行くもの有り之に遇ふ者あり

吉凶は命なり 之を作す者もの有り之に偶ふも.者あり

一來一往各各数を以て至る 豈徒らに云わんや

文中子「中説」より

文中子は少くして逝った中国隋の異色ある哲人で

門下から多くの国家的人材を出した点に於いて

どこか吉田松陰を偲ばせるものがある。

治乱とか窮達とか吉凶とかはどうにもならぬ

運命的事実で有る様に俗人程思い勝ちである。

豈徒らに云わんやーと云う其の徒言とは、そう

云う事を簡単に運命と決め込んで語る事である。

人間には機械化する傾向と想像する能力とがある。

理性が薄れ内省や努力を失う程人間は機械化して

個人の窮達も国家の治乱もすべて人事の吉凶は

決定的、他律的になってくる。

群衆の中に堕してしまったり紛糾する利害の中

に捉えられてしまうと段々そう云う風になる。

独自の隠れた容易に他から判らない内面生活は

之に反して独創性の源泉である。是こそ人格の

独立を堅持し精神の自由境遇の創造を可能なら

しめる。運とか時とか命とかは皆夫れ自体創造

の営みを言うのであるが其れに乗るとか遇うと

か偶うとか云う事はつまり偶然的、機械的な行為

自主性の無い行き当たりばったりの事を意味する。

革むとか行くとか作すとかは之に反して自主自由

の行動である。

治乱も窮達も吉凶も畢竟人次第で 或る者には

宿命同じ事が他の者には自由である。大きな国

家の難問題でも遠大な見識や優れた手腕のある

政治家あれば無事に解決するし平凡或は愚劣な

政治家が当たると破滅に陥れてしまう。

彼等は其れを運命の悲劇と云うであろう。併し

ながら達人は自業自得と顰蹙する。そう云う

因果の関係を数と云うのである。

よく数に通じて現実の裏表を熟知すれば相当に

予言は当るものである。

                                        解題-安岡正篤

此の章の言葉と解題は今迄に何度かアップしている

と思います。私の好きな言葉の一つです。

ちょっと長い文章ですが全文を引用いたしました。

終戦前後安岡正篤師の朝参に参加されていた若い

方々はこう云う言葉を心に刻みながら混乱の時代

を前向きに自らの運命世情の混乱を切り開いてき

たのでしょう。

そう云う方々の働きがその後の目覚ましい経済成長

の発展を生む礎となったのではないでしょうか。

1350年程前の文中子の言葉と昭和の安岡正篤師の

ことばどちらも令和の御代となった現在でも其の儘

適用できる至言ではないでしょうか。

日々の活動に活かしていければと思います。

下の図は文中子の言葉を私なりに図式化したものです

参考に為ればと思います。

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