神鍳(シンカン)

86番

神有り莘(シン)に降る 恵王これを

内史の過に問うて曰く

「これ何の故ぞや」

答えて曰く

「国の将に興らんとするや明神之に降る

其の徳を観るなり。将に亡びんとするや

神また之に降る。その悪を観るなり。

故に神を得てもって興る有り亦以て

亡ぶ有り。虞・夏・商・周皆之有り」

春秋左氏伝荘公三十二年条

(解題)

世に神を観たとか神の声を聴いたとか云う

一種の神秘的体験を奇瑞として驚喜する者がある。

それは必ずしも迷信とか精神病的現象として貶す

べきものではない。人間は物質的な世界に有乍ら

無限に拡がっておる不可思議世界に遊ぶことは

出来る。しかしそれは中々以てそう簡単な虫の

好い沙汰ではない。瑞祥だと思っておることが

案外不詳であるかも知れない不詳ということは

内心に対する警告である。何事も自己の内心を

通じて始めて真実の意義があるので徒に外物を

欲しがる限り真実の意義は判るものではない。

その迷妄が無闇に瑞祥や不詳を創り出すのである。

安岡正篤

見えないものを感得する感性は非常に大切なもの

と私は思っています。中には勘違いのものも

あるでしょう。でもやはりそういう体験がない

とある意味人生は無味乾燥なものとなって

しまうのではないでしょうか?

感じる事が出来る出来ないは別として

見えないものが存在すると信じる力は

人生にとって活力の源となるのではと

思っています。

元東京都知事を務めた石原慎太郎は

その著書「法華経を生きる」のなかで

「睡眠の間も猶人間というものは自分では

意識しきれぬ力というか摂理と云おうか

 自らの意思に重ねての何かに動かされている」

また「あいつは見ることも出来ない神様を頻り

に信じていると嘲笑う人間は信仰を持つもたぬ

は別にしても人間についてつまり自分について

迂闊に知らずにいるとしか言いようがない」

と述べています。

見えない存在を信じる力は実質的にも精神的

にも豊かな人生を築いていく源泉となりうる

のではないでしょうか?

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