百朝集36章
人間の真実の正しさは礼節と同様
小事における行いに表れる。
小事における正しさは道徳の根底
から生じるのである。
是に反して大袈裟な正義は単に
習慣的であるか或は巧智に過ぎぬことがあり
人の性格について未だ判明を与えぬことがある。
カール・ヒルティ
(1833-1909 スイスの法学者・哲学者)
解 題
選挙演説会で国民大衆に大袈裟な正義を主張
したり、時局に便乗して巧みに事新しく筆陣
を張るものがあったとしても、努々偉い人と
か迷わされてはならぬ。
其の人の何でもない日用尋常の言動に能く注
意しよう。案外化け猫や古狸の正体が何でも
ない事にチラチラばれるものである。
偉大な修行などと云うとどんな奇抜な人間離
れした事をするかなどと思う間は、まだ何も
判っておらぬのである。
尋常日用の工夫に徹するのが大修行なので
ある。
大いに悟りを開こうと思って先ず仏と云う
偉大なものの秘儀を掴もうと焦っておる僧
に趙州和尚(唐代末の名僧)は答えた。
「朝食は食べたか」「はい、頂きました」
「食器を能く片付けなさい」と。
安岡正篤
こう云う安岡正篤師の文言を読んでいますと
誰とは言いませんが今の政治家の姿などが
チラチラとよぎったりしますね(笑い)
如何に大言壮語しても何事も日頃の生活
態度が一番大切という事に落ち着きそうです。
仏教には「等覺一転名字妙覺」という
言葉もあります。難しい事は判りません
が要は覚りと云うものは一生懸命修行
する中で遠くにあるのではなく足元に
あると云う様な意味だと解しています。
日頃の行いの積み重ねが一番大事だと
いう事になるんでしょうか。
これは一般の社会生活にも言えること
でしょう。最初のヒルティの言葉も結局
同じことを言っているのではないでしょうか。
小事を疎かにするものは小事に足を掬われる・・・・
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