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論語・老子・禅 Ⅳ

安岡正篤著

おわりにあたり

3回に渉って安岡正篤著「論語・老子・禅」から気になる箇所をピックアップして掲載してきました。勿論個人的な見方での抽出なので、面白そうと感じた人または大したことないなと感じた人いろいろかと思いますが、其れは、紹介する人間の技量の問題であって、日本の将来をず~っと見据えてこられた安岡師の提言は未だ色あせることなく今でも重要な意義ある提言がつづられています。興味をお持ちの方はぜひ原書を読んでいただくことをお勧めいたします。         最後に著書の最後に引用されている箇所をそのまま抜き書きし、それが有志の一助になればと思います。

この政道から一番先に発するのが政略であるが、或いはこれを政見と言っても宜しいが、其の中で一番大事なものが教化であります。そこで司馬光の資治通鑑にある政治と強化に関する名論を読むことにします。

教化と国政  宋 司馬光

教化は国家の急務なり。而るに俗吏は之を慢る。風俗は天下の大事なり。而るに庸君は之を忽ユルガせにす。夫れ唯明智の君子のみ深く識り長く慮り、然る後その益の大にして功を収むる事の遠きを知る也。光武、漢の中頃衰へ、群雄糜沸するに遇ひ、布衣に奮起し前緒を紹恢し、四方を征伐し、日、給するに暇非ざるに乃ち能く経術を敦尚し儒雅を賓延し、学校を開広し禮樂を修明す。武力既に成り文徳裳亦洽し。継ぐに孝明・孝章を以てし、先志を遹追し雍に臨みて老を拝し経を横たへて道を問ひ、公卿大夫より群県吏に至迄、咸、経明かに、行修まるの人を選用し虎蕡の衛士も皆孝経も習い、匈奴の子弟も亦大学に遊ぶ。是を以て教、上に立ち 俗、下に成る。

其の忠厚清修の士は豈惟搢紳に取るのみならんや、亦、衆庶に慕はる。愚鄙汚穢の人は豈惟朝廷に朝廷に容れられざるのみらんや、亦、郷里に棄てらる。

三代既に亡びしより風化の美なる事、未だ東漢の盛なるが若き者非ざる也。孝和以降に及びて貴戚、権を擅にし壁倖事を用ひ、賞罰章なる無く、賄賂行し、賢愚渾殽し、是非顛倒す。乱れたりと謂ふべし。然れども猶緜々として亡ぶるに至らざるは、上には則ち公卿大夫に袁安・楊震・李喬・陳蕃・李膺の徒あり、面引廷争し公儀を用て以て其の危うきを扶け、下には則ち布衣の士に符融・敦泰・范滂・許邵の流あり、私論を立てて以て其の敗れを救ふ。是を以て、政治濁ると雖も而も風俗衰えず。斧鉞を触冒し、前に僵仆し、而して忠義奮発し継ぎて後に起こり踵に随って戮に就き死を視る事帰するが如きもの有るに至る。夫れ豈特に数子の賢なるのみならんや。

亦、光武・明・章の遺化なり。是の時に当り苟も明君有り、作ちて之を振はば則ち漢氏の祚、猶未だ量るべからざりしならん。不幸にして陵夷頽蔽の余を承け重ぬるに桓・雲の昏虐なるを以てし、姦回を保護する事骨肉に過ぎ、忠良を殄滅すること寇讐よりも甚だしく、多士の憤りを積み四海の怒を蓄ふ。是に於いて、何進・戎を召し、董卓・釁に乗じ、袁紹の徒従って難を構へ、遂に乗輿は播遷し、宗廟は丘墟となり、王室は蕩覆し、烝民は塗炭、大命は隕絶し、亦救ふべからざらしむ。然れども州群の兵を擁し地を専らにする者、互いに相呑噬すと雖も猶未だ嘗て漢を尊ぶを以て辞と為さずんばあらずや。魏武の彊伉にして、加ふるに天下に大功あり、其の君を無みするの心蓄ふること久きを以てすら乃ち身を没するに至る迄、敢えて漢を廃して自立せず、豈其の志の欲せざるならんや。猶名義を畏れて自ら抑えたればなり。是に由りて之を観れば、教化は安んぞ慢るべけんや。風俗は安んぞ忽せにすべけんや。         通鑑漢紀

誠に名論であります。此の頃の様に道徳も秩序も法律も何もかも無視して、大衆を動員して集団暴力によって野望を遂げようとする風俗は厳重に取締まらなければならない。風俗というものは如何に大事なものであるか、松川事件等の裁判を見れば良く判る。結局政道は教化、其処に最も神聖な意味がある。やはり教職は聖職であります。如何に経済が大問題であっても、其れを取り立ててすべきものではない。教育は神聖なり。教化は国家の大事なり。教化を振興しなければ何時の日か國は必ず亡び、民族は塗炭の苦しみに陥るでありましょう。

しからばいかにして其の教化を興すか。何よりも先ず上に立派な為政者が出て民間に立派な人物が輩出する事であります。彼のアメリカのウォルター・リップマンは民主主義の頽廃を救う為には、唯一つエリートをつくるより外には途がないと言っております。

そうしてエリートとは、中庸の語を引用して「天命を知る者也」と申しております。天命を知って道の修業をする。道を学ぶことに由って本当の指導者が養われるのであります。しかもそういう問題は別としても、その根本に於いて人間というものは、誠に人であればある程人生を生きるに従って、道を学ばざるを得なくなる。四十・五十にして聞く無きは、其れこそ孔子の云われる様に論ずるに足らぬ。是が本当の師道でもある分けであります。

  • 司馬 光(しば こう、1019年11月17日(天禧3年10月18日) – 1086年10月11日(元祐元年9月1日))                           中国北宋時代の儒学者、歴史家、政治家。君実。陝州夏県(現在の山西省運城市夏県)涑水郷の人。号は迂叟。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」・「司馬文正公」と呼ばれることも多い。また「涑水先生」とも呼ばれた。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。歴史書『資治通鑑』の編者として著名。政治面では旧法派の領袖として王安石ら新法派と対立した。                                             

 百朝集72章 人心の正否 安岡正篤解

総じて策士俗人の目の付き易いところは形の上の事である。真の志士先覚者はその精神如何を観る。機械兵制は末であり、人心が本である。本立たずして、どうして末の全きものがあろうか。根本たる人心が不正のままにしたならば、如何に法を厳にし、制度を整え為政者が声を涸らして叱呼するも効果の観るべきものはなかろう。おそるべく憂うべきは外敵ではない。ただ我等人々の心の正からざるこそ深き憂であるのだ。されば松陰裳「獄舎問答」中に「今の務べきものは、民生を厚うし民心を正しうし、民をして生を養い死に喪して憾みなく、上を親しみ長に死して背むくことなからしめんより先なるは無し。是を努めずして砲と言い艦と謂う。砲艦未だ成らずして、疲弊之に随い、民心之に背く。策是より失成るは無し」という所以である。再軍備論者も之に注意せねばならぬ。

                                以上