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論語・老子・禅 Ⅲ

安岡正篤著

「儒と禅」より

現代文明の危機は自己の喪失にあり

・・それでは一体何故こう言うことを夏の暑い最中のやるのか、やって何の意義があるのかと言う事になりますが、兎に角志相通ずる人々が相集まって今日の世の中に忘れられ、等閑にされておる最も大切なもの、其れを回復しようという事で、其れは何かと云えば結局眞實の自己であります。言うまでも無く現代はあらゆる方面から見て、実に雑駁・混乱を極めております。この混乱・雑駁の中に居る我々はどうしても自分自身を失い勝ちである。人間は、真実の自己というものを以て初めて一切が存在するので、これを失っては其れこそ一切が無義二なってしまう。人類の意義ある歴史とか文化というものは、全て真実の自己の開発から出来上がったものでありますが、その大事な自己を、現代文明・現代生活は段々閑却喪失してしまっておるのでありまます。是は大きな悲劇的脅威であって、結局此の混乱・頽廃を極める今日の時代・人類を救う究極の問題は、無視され、喪失されつつあるとこの真実の自己を云うものを、今一度把握し、これを磨きだすこと由り外には何もないのであって、これは、今日世界のアラユル思想家・学者の一致した意見となっているのであります。

古来宗教・道徳・学問は何のために存在してきたか、養われて来たか。皆是真実の自己を撤見しこれを陶冶する為に他ならないので、今後の文明が若し救われる運命に有りとすれば、我々人類が若しその破滅を免れる運命に恵まれておるとすれば、此の偏し過ぎた歌学・技術の文明に、精神的・道徳的文明を相応させることである。という事は之は疑いのないところであります。

新に硎より発す

そこで少なくともそういうことを弁えて居る我々の同人は、出来るだけ機会を作って、許される限り世間の束縛や雑務を離れて、先ず静かな時を得て、そうして本当の自分を、回光遍照とでも申しましょうか、本当に自分というものを撤見するという事が大切なのであります。云々・・

我々はこのあまりにも枝葉末節に派生し過ぎてきておる近代文明・近代生活から脱却して、本当の意味に於いて自然というものを把握しようと思ったら、出来るだけ複雑なものを簡略化し、雑多なものを圧縮して表現することを学ばなければならない。又人間が出来てくれば自ずから雑駁でなくなって、純一になってくるものであります。言葉遣いでも、簡に子て要を得るようになってくる。尤も簡略し過ぎると、詩や偈にならなくなって来るけれども、兎に角普段忘れて居ったり、気付かなかったりしたものを発見したり、思い出したりして真実なものを回復してゆく。そうすると丁度旱魃の為に枯れて居った泉なり井戸なりに、其れこそ水が再び湧いてくる。所謂活きた水、活水であります。そうしてその活水の源泉に到達する。有源を発見することが出来る。そこにこの研修会の意義があるわけです。云々・・

我々はこの雑駁混乱を極めた日々に煩わされて、自分自身を喪失しているばかりではなく、我々自身も亦、更にその厄介なものの中に、自己を、真我を埋没させておるのであります。それは何かといえば雑学であります。雑学ばかりではない。もっと悪い曲學というものがある。俗學というものがある。現代は知識階級程斯う言う雑学・曲學・俗學に覆われている。                真実の自己というものは、斯う言うものを払い落としてしまって初めて発見することが出来るのであります。今日は全く自己というものが何処にあるか、分からなくなってしまっておるのであります。

百朝集―大自在―安岡正篤解

浅薄なしたがって深い人格の自主性自由力を持たない人間は、少しうまくいくと好い気になって直に行詰る。少し苦しくなると忽ち疲れ衰えてしまう。人物が出来るに随って自己をも環境をも自由に創造し支配する。宇宙もこの人を如何する事も出来ない。

この大自在等一寸聞けばなんだか大変な難事の様に思われるが、実は極平凡事なのである。

徳山の棒と言われる程、厳しく門下を鍛えた徳山宣鍳和尚。(伝教・弘法と略同時期の唐僧)の宗旨も、彼の語で言えば「心に無事、事に無心」というに帰する。その師龍潭祟信のまた師、天皇道悟の名高い偈がある。

「任性逍遥 随縁放曠 但尽凡心 無別勝解」 性ニ任セテ逍遥ス 縁ニ随ッテ放曠ス タダ凡心ヲ尽クスノミ 別ニ勝(聖)解ナシ

何事も縁、学問・求道にもやはり縁というものを持たなければならないのであります。徳山は斯う言う心を称して無心と言っております。

聞く処によれば、戦後の歴代総理は、指南役として安岡正篤師を迎えていたともいわれています。そのため、世に師の事は、黒幕とかフィクサーなどと揶揄されていたのも事実。しかし、時代が移り現在では、師のような形での指南役と呼べるような人物が政治家の周りには皆無なのではないでしょうか?

安岡正篤師の著書を読んでいるとおっしゃる政治家は多々居られるようですが、果たして、師の学問思想を本当に理解して所謂活学として生かされている人が何人いるのでしょう。国会・選挙等々政治の現場・永田町のドタバタ劇を見るたびにそのような人物は皆無だと感じざるを得ません。

現在の政界、国家国民の為というよりは己の保身の為、理念理想よりは票集めが先と云った政治家ならぬ政治家まがい、政治屋が横行しているようにしか思えません。何故、役所官庁に「省」の字を当てるのか、何故大臣に「相」の字を当てるのか。この本でも読んでお考え頂ければ少しは変わるかもしれません。   今後、本当の気骨ある政 治家が出てくることを日本の為にも切に願ってやみません。

(補足)茲で、当に現代社会の国際情勢を予見したかのような卓越の一文が此の「儒と禅」の中に在りますのでその部分引用してみます。コメントは差し控えます。皆様でお考えいただければ嬉しいですね。

新性を撤見し、真実の世界を開顕す

この間もライシャワー米大使と我々数人で、一晩飲みながら議論したのですが、要するに今日の東西両陣営の突き詰めた結論は、PowerPolitics(力の政治)が勝つかPublicExcellence(公徳を基調とするゆき方)が勝つかという事になるのでありまして、共産側はあくまでも力で押しまくろうとするし、自由陣営は力で対抗することをやめて、こちらの優秀さを彼らに見せてやろうという。然し是はなかなか難しい事であります。仏教でも勢力と道力の二つの力を立てておりますがしかし、勢力はどこまでも方便であって、本来は道力であります。道力はよく人を摂受する。今日云う所の寛容であります。マルクス・レーニン主義は勢力で行こうとするし、自由主義諸国は道力に徹しようとする。しかし摂受でゆくには、余程の道力がなければならぬので、自由主義諸国は果たして摂受と言えるような道力を持っているかどうか。道力はおろか勢力をも次第に失ってゆく危険があるのであります。気分の満足、観念の遊戯に堕して、理念を持ち乍ら現実には空しく亡んでゆくという事が、人類の長い歴史の常に示してくる處であります。云々(中略) 我等自由主義陣営もパブリック・エクセレンスを誇り乍ら、凶暴なパワー・ポリティックスの前に、空しく亡び去る危険決して少なしとしないのであります。善も亦、力でなければならない。是を痛論したのはニーチェであるが、彼はその思想と實人物の自分との矛盾から発狂してしまった。其れでは詰まらない。思想と人物を合一し、金剛不壊の人物を作り上げる、これが東洋の学問。修養の本義であります。